宮沢賢治「政治家」部分
半紙
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昨日の詩の一部です。
暖かい世界にしたいものです。
宮沢賢治「政治家」全文
半紙
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政治家
あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいやつらばかりだ
羊歯の葉と雲
世界はそんなにつめたく暗い
けれどもまもなく
さういふやつらは
ひとりで腐って
ひとりで雨に流される
あとはしんとした青い羊歯ばかり
そしてそれが人間の石灰紀であったと
どこかの透明な
地質学者が記録するであらう
宮沢賢治は、激しい人。
こんな詩も書いているのです。
【特別エッセイ】
落語の極北
落語というのは孤独な芸だとつくづく思う。それは、生身の人間そのものと切っても切り離せない芸だからだ。そういう意味では、あらゆる芸術は孤独なものには違いないが、ひとりの噺家によって、すべてが表現され、完璧なまでに完結している落語という芸には、その孤独の酷薄さがひとしお身にしみて感じられる。
もちろん、観客あっての落語である。常に観客の目に、耳にさらされつづけた喜多八師匠が、孤独であったとは思わない。むしろ、多くのコアなファンに囲まれ慕われた喜多八師匠は、幸せだったと思う。けれども、どこまでも落語の深奥を極めようとしていた師匠の日々の営みは、やはり言い尽くせない孤独の中で行われていたのだろう。
その孤独の営みの中で、師匠は落語の極北を見ただろうか。そこに行くつく前に、天は師匠を召したのか。それはわからない。ぼくらはぼくらの孤独の中で、師匠の高座を反芻しながら、落語の極北を夢見るしかない。
この文章とカットは、「第14回弁天寄席」(2016.9.3開催)のパンフレットで柳家喜多八師匠の追悼特集をするというので、依頼されて書いたものです。
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
Zypressenしづかにゆすれ
鳥はまた青空を截る
半紙
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Zypressenとは糸杉のこと。
これをゴジラに置き換えたらどうだろう。
宮沢賢治「春と修」より
半紙
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草地の黄金(きん)をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまといおれを見るその農夫
ほうたうにおれが見えるのか
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映画『シン・ゴジラ』の冒頭で
東京湾に漂流するプレジャーボートのキャビンに
おかれていたのが、宮沢賢治の「春と修羅」の初版復刻本でした。
それに気づいたのは、1回目を見たあと、知人からの情報でした。
そのこともあり、また、それ以外のことでも多くの気になることがあったので
もう一度見に行って、「春と修羅」が置かれていたこと
そして、それが初版の復刻本であることを確かめました。
ここには、そうとうな思い入れがあるはず。
「春と修羅」という詩集のどの詩を庵野監督は意識したのかと考えたときに
この部分しかないと、その知人も言ったような気がしましたし
ぼくもここだろうと強く思いました。
「ほんとうにおれが見えるのか?」
これは、「ゴジラ」自身の問いかけかもしれない、などと
思う日々です。