木洩れ日抄 81 ぼくのオーディオ遍歴 その5 ── 「ペーパームーン」の「ダイヤトーン」
2021.10.27
オーディオについての、三つの忘れられない思い出のうち一つは、相鉄ジョイナスのレコード店で聞いた南沙織のLPレコードだったわけだが、その歌とともに、その「音」に魅了されたのだった。
二つ目は、下北沢の「ペーパームーン」で聞いた、「ダイヤトーン」のスピーカーである。今ではもうないと思うのだが、この「ペーパームーン」というお店は、若者向きのレストランだった。
都立忠生高校の演劇部の卒業生が数人で、下北沢の小さな劇場で芝居をやったことがある。1980年ごろのことだ。何の芝居だったか覚えていない。彼らのオリジナル戯曲であったのかもしれないし、つかこうへいの戯曲だったかもしれない。とにかくやたらおもしろくて、ゲラゲラ笑った。その後の打ち上げだったのだと思う。その「ペーパームーン」で飲んだのは。
そのころは、青山高校に勤務していたが、今思えば、忠生高校時代のストレスが一挙に爆発したのだろうと思えるのだが、一種のパニック障害のような精神状況にあった。青山高校には結局7年間いたのだが、居心地はとてもよかったのに、そのまま青高に勤務し続けることが無理らしい──つまり強制移動が始まるらしい──という状況になってきたとき、ぼくの気持ちは、だんだん母校へと傾いていった。そんな不安定な時期だったわけだが、その「ペーパームーン」で飲んだときのことを書いた詩があるので、ちょっと紹介しておきたい。
ある出発
酔ってもいつも
固く閉ざされていたぼくの心が
その時わずかばかり開いて
貝のような赤い肉を
チラリとみせたように思われた
山と盛られたポップコーンを
掌でつかんでほおばりながら
たてつづけに五杯の水割り飲んで
「おやまならあいつにまけない」などと
泣いたり叫んだりする演劇青年に
しきりにあいづちうって
わけのわからぬ愚痴を
わめきちらしたようだ
大声あげて
下北沢のホームで別れてから
とたんに吐き気におそわれて
家までの二時間を耐えに耐え
それでもちゃんと家の便所で吐いた
酒を飲みはじめて十何年
はじめて
吐いた
人の吐いたものを
始末するのが役目だったぼくが
詩をかこうと
思った
「詩集 夕日のように」(1984年自費出版)より
汚らしくて、お恥ずかしい詩だが、それにしても、このころ、なにがこんなにぼくの心を「閉ざして」いたのか分からない。そこで叫んだ「愚痴」っていったい何だったのかも覚えていない。しかし、この詩を書かせたぼくの心はウソじゃなかったはずだから、なにか、いいようもないものが心のなかにわだかまっていたのだろう。そして、それが、「演劇青年」たちの叫びに共鳴して、はじけたのかもしれない。
「詩をかこうと/思った」なんてかっこいいこと言って終わっているのに、この数年後に、都立高校をやめて、母校に戻ってから、詩を書くことがほとんどなくなってしまったのも不思議である。
などと脱線すればキリがないが、オーディオのことだった。
このとき「ペーパームーン」で、ジャズだったのかロックだったのか知らないが、ものすごく切れのよい音を流し続けていたのが、三菱電機の「ダイヤトーン」というスピーカーだったのだ。そのスピーカーは、板張りの床に、2メートルほどの間隔で、ブロック状のスピーカー台の上に、壁からも離れて置かれていた。この置き方も、理想的ではなかったろうか。
前にも書いたことだが、オーディオ機器というのは、ただそれぞれの機器のスペックだけが大事なのではなくて、それがどのような環境、空間に置かれるかによってまるで違う音になるのだと思う。
このときの「ペーパームーン」は、室内が、若者の叫び声やら泣き声に充満していたのに、その混沌たる空間を、まるで切り裂くようにしてぼくの耳に届いた「音」。ぼくはその「音」に酔いしれたのだろう。そして、その「音」こそがぼくの心を解放したのかもしれない。
音にしても、絵にしても、写真にしても、どうもぼくは、エッジのきいたシャープさが好きなようで、そういう意味でも、このダイヤトーンのスピーカーの音は衝撃だったし、ぴったりきたのだった。
酔っ払った目でも、しっかりスピーカーが「ダイヤトーン」であることは確認し、それを今でも覚えているわけだが、アンプとかプレーヤー(確かまだそのころはLPレコードだったはずだ。あるいは初期のCDだったのかもしれない。)の銘柄は調べもしなかった。オーディオ機器でいちばん大事なのは、スピーカーだと今でも思っている。
それから数年後、ダイヤトーンのスピーカーを買ったのだが、当然のことながら、家の中では大音量で鳴らすこともできず、あの「ペーパームーン」の「音」の再現は二度とできなかった。
何事も「一度きり」である。だから、いい。