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日本近代文学の森へ (199) 志賀直哉『暗夜行路』 86  「自分らしい本統の新しい生活」への予感  「後篇第三  二」 その3

2021-10-03 10:18:21 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (199) 志賀直哉『暗夜行路』 86  「自分らしい本統の新しい生活」への予感  「後篇第三  二」 その3

2021.10.3


 

 博物館へ行ったあと、謙作は家探しのことを思い出す。そして、話はふたたび「美しい人」のことに戻っていく。

 博物館へ行き、そこで絵から何かを語りかけられるような気分になったというエピソードは、一見、話の展開とは無縁のように思えるが、この小説では、謙作の気持ちのありようこそが重要なので、この後につづく展開にはむしろ必須だったのだとも思える。


 高台寺の中に貸家が出来つつあるという話を憶い出し、彼は少時(しばらく)して、その方へ行った。貸家は二階建の二軒棟割りになった家で悪くなかった。町への出端もよく、彼は気に入ったが、疲れから大家まで行く事が大儀に思われ、そのまま八坂神社へ出て四条通りを帰って来た。
 四条の橋を渡った所に、川へ突き出しを作った安値な西洋料理屋がある。それへ入った。どのみち風のない日だったので、彼はなるべく陽に遠い空いたテーブルを選んで腰を下ろしたがやはり先ず飲物が欲しく、椅子へ横向きにかけ、振返っていたが丁度立て込む時で女中はなかなか廻って来そうになかった。

 

 鴨川沿いには、いわゆる「床」がある料理屋が今でもあるが、ぼくは遠目にみただけで、そこにあがったことはない。何度も京都に行ったのに、残念なことである。

 貸家を探して、こんなふうにぶらぶらと京都市内を歩き回る謙作には、心の奥に鬱屈を抱えているとはいえ、どこか、ふっきれたような明るさが感じられる。

 この西洋料理屋で、偶然、謙作は友人に出会う。

 

 彼はふと、自分から三つ四つへだたったテープルで一人、忙しくナイフとフォークを動かしている男に気がついた。まだ食っている内からナイフを挙げて、
 「オイ、シチュウ。──わかりましたか」こんな事を太い声でいった。やはり高井だった。
 謙作は自分の麦藁帽子を取上げ、起って行った。
 「オイ」こういってちょっと肩を突(つつ)くと、高井は不審そうに振向いて眼を見張ったが直ぐ、
 「オオ」といって起ち上がった。
 「うまく会えたね」
 「本統に」と高井も嬉しそうにいった。
 二人は丁度二年ぶりで会ったわけである。その頃謙作は五、六人の友達と同人雑誌を出そうとした。高井もその一人として、彼が洋画家である所から、装禎を引き受け、詩や短歌なども出すはずであったが金の事がうまく行かず、一卜先ず雑誌は延ばす事にすると、間もなく高井は胃から来た割りに烈しい神経衰弱にかかり水治療法をやる神戸の衛生院に入り、其所(そこ)に一年近くいて、ほとんど全快し、それから但馬の方の郷里へ帰っている、という事を謙作は人伝手(ひとづて)に聞いていたのである。

(注)水治療法=冷水・湿水または蒸気の温度および剌激を利用して病気を治療する方法。


 高井の発した「オイ、シチュウ。──わかりましたか」という言葉が、なんだか面白い。「オイ」という尊大な呼びかけに対して「わかりましたか」という妙に丁寧な言葉のギャップ。今だから「ギャップ」と感じるのだが、そのころは、どうだったのだろう。「オイ」「コラ」などが警官の常用語だったらしいから、当時の男言葉というのは、基本的には権威的、男尊女卑的だったことは確かだろう。

 「暗夜行路」は「自伝的フィクション」だから、この高井も、モデルがいるかもしれない。研究書を調べれば分かるかもしれないが、有島生馬あたりかもしれない。

 この後、謙作は、自分の「恋」のことを高井に打ち明ける。

 


 暫くして二人は其所を出、連れ立って東三本木の宿へ帰った。そして謙作は前日からの事を割りに精しく高井に話した。
 「随分真剣なんだね」高井は二十前後の青年かなぞのような初々しい謙作の感情をちよっと意外に感じたらしかった。
 「僕としては純粋な気持だ。しかしこれからどう進ませるか、それは今の所ちょっと見当がつかない。もしこのままにしていると今までの経験では、また、有耶無耶になりかねないが、何となくそうはしたくない気があるんだ」
 「積極的にやるのさ、どういう人か調べて、誰れかに申込んでもらうんだ」
 「そう《てきぱき》行けばいいが……」
 「頼むのさ、誰れか人にやってもらうのさ」
 「うん」
 「僕でも出来る事ならやりたいが、こんな書生っぽでは彼方(むこう)が信用しまい」
 「君にやってもらえれば僕には最も嬉しい事だ」
 「そう……やれるかしら。やれれば僕も喜んでやるが」高井はちょっと考えていたが、「その家に部屋があるかね。僕がそれを借りて住む事が出来れば……、大概、人の見当はつくが……。もし君に不賛成がなかったら、こんな事も一つの手段だね」といった。

 

 こういう友人というのはありがたいものだ。高井は謙作に比べて、実に闊達で、積極的で、面倒がらずにどんどんと話を進めていく。とれる手段をいろいろ考えて実行する。

 二人はさっそくその女のいる家に向かう。

 そんなふうに事が運んでいく中で、謙作は、こんなことを考える。

 

しかしこうしてこの事がもし順調に行くものとすれば高井のあのおかしな後姿もただ笑ってはいられないと思った。それにつけても自分は自分の出生を少しも隠す事なしに、話し、彼方(むこう)にその事から先ず解決してもらわねば……と考えた。

 

 やはり、どうしても謙作の心の中から、「出生」のことが離れないのだ。


 二人は荒神橋の袂から往来へ出た。謙作は自分が自分ながらおかしいほど快活な気分になっている事に気がついた。その人の姿の片鱗を見たというだけでこうも変る自分が滑稽にもまた、幸福にも感ぜられた。こうしてこの事が順調に運び、うまく行けば、今までにない、本統の新しい生活が自分に始まるのだと思った。実際今までは総てが暗闇に隠されていた。そのために、かえって恐ろしい徽菌が繁殖した。総ては明るみへ持ち出される。そして日光にさらされる。徽菌は絶やされる。そして、初めて、自分には、自分らしい本統の新しい生活が始まるのだ。


 しかし、そうした「出生」の問題も、謙作の「快活な気分」のなかで、自然に解消していくような予感がある。謙作を待っているのは、「自分らしい本統の新しい生活」なのだ。

 高井が、まずその女の住む家に部屋を借りるという案は、先方から断られてしまうが、謙作の宿の女主が仲介を申し出た。なにやらうまくいきそうな気配だが、そこへ謙作の兄信行からの手紙が来る。

 

 

 


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