日本近代文学の森へ (201) 志賀直哉『暗夜行路』 88 鳥毛立屏風の美人 「後篇第三 三」 その3
2021.10.21
謙作の友人の画家である高井は、そんなに女にご執心なら、積極的にアプローチすべきだといい、なんならその女の住む家に空き部屋があれば、自分がそこに一時住んで、様子をみて、接触してみようと提案し、すぐに部屋の交渉に出かけたのだったが、やはり、断られてしまった。
帰ってきた高井は、謙作の宿の女主に、情報を求めると、それは「東山楼」という宿で、ちょっとした付き合いもあるから、聞いてきましょうと言って出て行く。その前に、信行からの手紙を置いていったのだった。
信行の手紙を読み終わったころ、女主が戻ってきて、やはり空間はないということだったと伝える。
女主が入って来た。東三楼という家にはやはり空間がないという返事だった。
「今、表にいられます、お年寄りの病人さんが二十日もしたらお国へ帰られますはずやで、そしたら、そのお座敷が空きますがちゅう御返事でござりました」
「ありがとう」高井はこういった。「どうも、それでは仕方がない」
女主は帰って行った。
「しかし訊いて見てよかったよ」と謙作はいった。「二十日するとあの老人がいなくなる事がわかっただけでもいい」
「そうだ。それまでにどうかしていい手づるを作るんだ」と高井もいった。
「もしかしたら兄貴に来てもらおうかしら。今手紙が来て、自家の方の事でも少し話したい事があるし。もっとも僕が帰る方が早いかも知れないが、そうしてると、此方が不安心だから」
「うん、それがいいかも知れない。そうしたまえ。兄さんは何時でも出て来られるんだね」
「大概来られるだろうと思う」
「早くその人が何所の人か、そしてあの老人とはどういう関係の人か、それを確かめるといいね」
「あの人の娘かね?」
「さあ」
「姪かね?」
二人は笑った。
「そう観察力が鈍くちゃ仕方がないな」
「眼がくらんでるんだ。──しかし娘じゃあないよきっと」と謙作はいった。
「兄さんへ手紙を書くなら遠慮せずに書いてくれたまえ。そしたら僕はちょっと五条まで買物に行って来る」こういって間もなく高井は宿を出て行った。
謙作が見た老人は、どうやら近くの病院へ通うために「東山楼」に住んでいるらしい。では、あの女は、その老人の娘なのか、それとも姪なのか、と二人は想像するわけだが、もちろん分かるわけもない。
老人と若い女──というぐらいの情報しかここにはないが、今の感覚で考えるとおそらく間違える。老人とはいっても、たぶん、50代だろうし、若い女といっても、10代かもしれない。これが今だと、80代の「老人」と、30代の「若い女」ぐらいが相場だろう。
高井が出て行ったあと、謙作は信行へ返事を書く。その手紙を書き終わったあとの描写が素晴らしい。
彼が座り疲れた身体を起こし、その手紙を頼みに立って行くと、玄関の狭い廂合(ひあわ)いから差込んで来る西日で、いつもは薄暗い廊下の縁板が熱くなっていた。
何ということもない描写だが、手紙を書くために座っていた謙作が、よっこらしょと立ち上がって廊下に出ると、その縁板が西日のために熱くなっていた、というのだ。だからどうした、ということではなくて、こうした冴えた描写によって、謙作が住んでいる家の構造やら、位置やらが、立体的に浮かび上がってくる。さらには、疲れた体に、足からしみこんでくる板の「熱さ」が、謙作には心地よく感じられただろうと思うと、一種の心理描写ともなっているわけで、その巧みさに驚かされるのだ。
その後の、「帰ってくる高井」の様子の描写も見事だ。これ以上簡潔には書けないというほど、高井の行動を写している。
彼は少時(しばらく)して湯に入り、また前日のように団扇を持って腰を下ろしていた。遥か荒神橋の方から何気ない真顔で、急足(いそぎあし)に帰って来る高井の姿が眼に入った。そして前まで来ると今度は割りに大胆にその方を見ていた。間もなく高井は一枚橋を渡って微笑しながら帰って来た。
「よく見た」
「そうだろう。恐らく一度で僕よりよく見たらしい」
「あれは君、鳥毛立屏風の美人だ」突然こんな事を高井がいった。この評は割りに適評であり、謙作には大変感じのいい評であった。
「ふむ、そうかな」そういいながら謙作は自分が赤い顔をしたように思った。
高井は湯へいった。その間(ま)に謙作はまたちょっと河原へ出て見た。前まで行く気がせず、遠くからそれとなく気をつけていると、その人の姿は時々見えた。
その晩二人は新京極へ活動写真を見に行った。「真夏の夜の夢」を現代化した独逸(ドイツ)物の映画を二人は面白<思い、晩(おそ)くなって二人は、東三本木の宿へ帰って来た。
「そして前まで来ると今度は割りに大胆にその方を見ていた。」という「前」とは「女の家の前」であり、「その方」とは、女の方、であるわけだが、大胆な省略である。この前の記述を読んでないと、なんのことやら分からない。まあ、小説というのはそういうものだけど。
高井がその女にどういう印象を持ったかは、「微笑しながら帰って来た」で分かる。「うん、こりゃあいい。すてきな人だ」という弾んだような高井の気持ちが伝わってくる。その高井はその女を「鳥毛立屏風の美人だ」という。これはまた大きく出たものだ。ちょっと下ぶくれの顔だったのだろうか。
謙作はその言葉を聞いて「謙作には大変感じのいい評であった。」と感じる。「うれしかった」と書かないところが志賀直哉風である。「そういいながら謙作は自分が赤い顔をしたように思った。」も同じだ。平凡に書けば、「謙作はうれしくて、ちょっと顔を赤らめた。」となるところ。あくまで謙作の気持ちを「外側」から書こうとしているということだろう。
高井に褒められたものだから、謙作は、高井が風呂に入っている間に、女の家のほうへ出て行って、ちらちらとその女の姿を見る。素直でいい。浮き立つような謙作の気持ちが切ないほど伝わってくる。
シェイクスピアの「真夏の夜の夢」のドイツ版映画って、いったいどんな映画なんだろうと思って調べてみたら、詳しいことは分からなかったが、1925年(大正14年)に作られたドイツ映画らしい。