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日本近代文学の森へ (192) 志賀直哉『暗夜行路』 79  ポクリポクリと歩きたい   「後篇第三  一」 その2

2021-06-17 10:27:47 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (192) 志賀直哉『暗夜行路』 79  ポクリポクリと歩きたい   「後篇第三  一」 その2

2021.6.17


 

 住むべき家を探して、謙作は京都を歩く。


 それにしても、早く住むべき家(うち)を探さねばならぬのであるが、行く先々に何かしら見るに足る寺々のある京都では、貸家探しはいつか寺廻りと変る方が多かった。
 その日も朝涼(あさすず)の内に嵯峨方面を探すつもりで、天気続きにポクリポクリほこりのたつ白い道を釈迦堂から二尊院、祇王寺の方へ廻り、結局、目的の貸家は一軒も見ず、二尊院の「法然上人足びきの像」と称する偉(すぐ)れた肖像画をその日の収穫とし、満足して午頃(ひるごろ)、川に望んだ東三本木の宿へ引き上げて来たのである。
 午後中、彼はその宿の暑い小さな座敷でごろごろして暮らした。
 やがて、日が入りかけ、宿の女主が風呂をいいに来て、風呂に入り、それから出て、晩の食事に向かった頃には漸く河原を渡って来る風もいくらか涼しく感ぜられた。
 食事を終った彼は敷居に腰を下ろし、団扇を使っていた。低い欄干の下を小さい流れが気忙わしく流れている。新しく出来た河原の広い道で男女の労働者が川底から揚げて来た砂利を大きさに従ってふるい分けている。それから所々、草の生えている加茂川。それから日の当った暑そうな対岸の往来、人家、その上に何本かの烟突(えんとつ)、そして彼方に真正面に西日を受けた大文字から東山、もっと近く黒谷、左に吉田山、そして更に高く比叡の峰が一眸の中(うち)に眺められた。
 「早く秋になるといいな」彼はそう思った。冷え冷えと身のしまる朝、一人南禅寺から、若王子(にゃくおうじ)、法然院、あのあたりに杖をひく自身の姿を想い浮べると、彼にはしみじみそう思われるのであった。

 


 こういうところを読むと、やっぱり志賀直哉は文章家だなあと思う。

 詩人の吉野弘が、「山本周五郎小論」(「現代詩文庫 12 吉野弘」所収)というエッセイで、「山本周五郎の文章は、溜息が出るほど巧みである。文章のうまいという点では、志賀直哉と並ぶ作家だと、私は思っている。」と書いている。

 吉野弘、山本周五郎、志賀直哉という取り合わせは、なんか珍しい感じだが、吉野弘は山本周五郎に共感しつつも、そこに、世間では「民衆を描いた作家」と思われているが実は「民衆嫌い」が潜んでいるのではないかと指摘している。そしてその嫌いな民衆を、理想的な民衆にしたてあげたいと思うのが周五郎で、彼の作品は「教訓物語」なのだとしている。

 そんなふうに論じながら、吉野は志賀に触れて、次のように言っている。


 志賀直哉は、私の、最も傾倒している作家だが、この作家ぐらい「不快」という感情をむき出しにする作家は、他にないような気がする。そのたびに私は、育ちが違う、という思いにとりつかれるのであるが、志賀直哉という作家にとって、この「不快感」の赤裸々な表出は、頗る重要な意味をもっている。つまり、作家としての志賀氏は、「不快」を「不快」として、はっきり外へ示すことを通じて自己確立を押し進めていったと私には思われる。
 ところで、「不快」を「不快」として外部に表出するということは、そういうことができるという生活環境ときりはなしては考えられない。青年期の志賀氏は、不快という感情を抑制しなくてもすむような、経済環境に育ち、その中で、対自己、対社会、対自然の感情を育てていった。

 

 なるほど、「不快」を「不快だ」と外に向かって臆面もなく表出できるのは、「育ちがいいからだ」というのは実に分かりやすい。けれども、それならそんな贅沢は許されない育ちの悪い人間が、「不快」を感じたとき、どうなるか、というのが、この後のこのエッセイの展開だが、ここでは深入りしない。ただ、吉野弘という詩人が志賀直哉に「傾倒していた」ということを、ちょっと心にとどめたいと思って引用してみたまでだ。

 さて、本題に戻るが、志賀の「名文」によって紹介される京都の町の姿には魅了される。

 「朝涼」という言葉は、俳句の季語でもあるらしいが、初めて知った。(あるいは忘れていた。)いい言葉だ。真夏になるとそんなことも言ってられないほどの暑さで、「朝暑」としかいいようがないが、ちょうど今日などは、ぴったりの言葉。京都の夏は暑いから、よけい「朝涼」はありがたいのだろう。

 謙作が宿をとっているのは、加茂川のほとりの「東三本木」(京都御所の近く)。そこからポクリポクリと歩いていけば、小一時間もしないで嵯峨野にいける。

 嵯峨野は何度も行ったところだが、修学旅行の引率も多く、なかなかポクリポクリというわけにはいかなかった。直近では、6年ほどまえに京都に行っているが、その時は嵯峨野に行ったかどうか記憶にない。その後、京都は外国人観光客でごった返し、そのうちコロナ禍となって、今では、行くことすらできない。

 ああ、嵯峨野あたりに杖をひきたい。ポクリポクリと歩きたい。そうして、昼過ぎには宿に戻って、ごろ寝したい。

 「やがて、日が入(はい)りかけ、宿の女主が風呂をいいに来て、風呂に入り、それから出て、晩の食事に向かった頃には漸く河原を渡って来る風もいくらか涼しく感ぜられた。」という文章は、これが果たして「名文」だろうかと思うほど、素朴だ。小学生の作文みたいだ。とくに、「宿の女主が風呂をいいに来て、風呂に入り、それから出て、」の部分。江戸っ子なら、「ひとっ風呂あびて」で済ますところだし、風呂に入ったなら「出る」のは当たり前だから、「出て」なんてわざわざ書くこともない。それなのに、志賀直哉は、そんな当たり前のことを、将棋の駒を置くように、ぽん、ぽん、と書き連ねる。幼稚のようでいて、巧みなのだ。

 これを、「夕方になったので、風呂に入って、食事をするころには涼しくなっていた。」としても、意味するところに大差はない。まあ、「女主」が出てこないぐらいの差だ。しかし、実は大差があるのだ。それは、そこに流れる「時間」である。

 「やがて(この言葉自体が時間を含んでいる)────日が入りかけ(この「入りかけ」の中に数十分が流れているわけだ)──宿の女主が風呂をいいに来て(「お風呂が入りました」という女主の言葉に対して、謙作は何か答えたはず。さらに、世間話があったかもしれない。)────それから出て(風呂から「出る」のは当たり前だが、あえてこう書くことで、風呂に入っている時間が流れる。)────晩の食事に向かった頃にには(「食事に向かう」までに、おそらく数十分のゆったりした時間が流れたことだろう。)────漸く河原を渡って来る風もいくらか涼しく感ぜられた。(「漸く」には、今までの暑かった時間とともに、今は涼しさを感じる謙作の喜びが感じられる。その謙作の心の中には、今日一日の出来事の回想の時間も流れるわけだ。」

 小説を読むということは、ただ物語の筋・展開を追うのではなく(それも必須だが)、そこに流れる時間を味わう、あるいはその時間に身を浸すということだ。筋や展開は、「論理」が主導するが、時間は、たぶん「感覚」に導かれる。

 食事を終わったあとの描写も秀逸である。加茂川べりの風景が、繊細に描かれ、まるでそこにいるかのような錯覚にとらわれ、やがて、謙作とともに「早く秋になるといいな」としみじみ思うのだ。

 

 

 

 

 


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