Yoz Art Space

エッセイ・書・写真・水彩画などのワンダーランド
更新終了となった「Yoz Home Page」の後継サイトです

日本近代文学の森へ (26) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その2

2018-06-29 14:53:00 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (26) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その2

2018.6.29


 

 友人から、もう少し「龍土会」のことを聞かせて欲しいという要望があったので、前回と重複するところもあるが、引用しておく。


 龍土會と云ふのは、おもに自然主義派と云はれる文學者連を中心としての會合で、大抵毎月一囘晩餐の例會を開くことになつてゐる。幹事は二名づつのまはり持ちで、この月には田島秋夢と今一名渠(かれ)と同じ新聞社にゐる人の名が出てゐた。
 義雄はこの會の最も忠實な常連の一人でもあるし、友人どもの顏も暫く見ないし、印刷を終つた自著『新自然主義』がいよ/\世間に出た當座の意氣込みもあつたことだし、喜んで出席することにした。そしてお鳥が、その日になつてもこちらの痔が惡くなるにきまつてるから止めて呉れろと頼んだのも承知しなかつた。
 中の町から檜町の高臺にあがると、麻布の龍土町である。そこの第一聯隊と第三聯隊との間に龍土軒と云ふ佛蘭西料理屋がある。そこが龍土會の會場であつた。
 義雄はそこに一番近いので、午後六時にはかツきり行つた。が、まだ誰れも來てゐない。
 ボーイを相手に玉を突いてゐるうちに、人がぽつり/\集つて來た。そのうちの一人が玉場へ飛び込んで來て、
「どうだ、久し振りで負かさうか?」かう云つて直ぐキユウを取つた。例の歌詠みから株屋の番頭に轉じた男だ。「然し、ねえ」と、かの永夢軒に於ける義雄の失敗を持ち出して來て、
「また電球をぶち毀すのは眞ツ平だぜ。」
「あれはどこの玉屋へ行つてもおほ評判ですぜ」と、そばにゐたそこの主人が少しおほ袈裟に笑つた。
「もう、大丈夫だよ。」まじめ腐つて答へながら、義雄も臺に向つたが、いろんなことが氣にかかつて、もろく勝負に負けた。
「よせ/\」と呼びに來たものもあつて、義雄も二階にあがつた。
 渠を見るのは近頃珍らしいので、皆が話をしかけた。
「君の著書をありがたう」と挨拶するものもある。
「あんな短い紹介だが、取り敢ず新刊紹介欄に載せて置いたよ」と云ふものもある。
「耽溺はどうなるのだらう」と、こちらが現代小説にやつた作のことを云ふものもある。
「君の女はどうした」と、ぶしつけに聽くものもある。
「顏の色が惡いが、過ぎるのだらう」と穿つたつもりでからかふものもある。
「また痔が惡くツて、ね、閉口してゐるのだ。」
「ぢやア、酒はやれまい」と、慰め顏に質問するものもある。が、渠はかた一方の耳がまだよくないので、左の方から云はれた言葉を度々聽き返したり、聽き落したりした。
 やがて椅子が定まつて、日本酒の徳利がまはつた。
 秋夢は幹事だから末席にゐる。渠は鋭い皮肉な短篇小説で名を出した人だが、外に「破戒」を書いた藤庵がゐる。「生」を書いた花村がゐる。劇場のマネジヤーを以つて任ずる内山がゐる。また外國新作物の愛讀者で、司法省の參事官をしてゐる西がゐる。その西が紹介した農商務省の山本といふ法學士がゐる。株屋の番頭がゐる。工學士の中里がゐる。麹町の詩人がゐる。琴の師匠の笛村がゐる。漫畫で知られる樣になつた杉田がゐる。或出版店の顧問、雜誌の編者等もゐる。
 かう云ふ人々の中にあつて、いつも渠等の談話を賑はすのは田邊獨歩であつたが、今年の六月に肺病で死んでしまつた。餘り出席はしなかつたが、矢張り、會員であつた眉山は、獨歩の死ぬ少し前に自殺した。
 眉山の自殺してから間もなく、茅ヶ崎海岸の獨歩の病室で、「この龍土會の會員の中で、誰れが眉山の次ぎに死ぬだらう」と云ふ話が出た。
「無論、田村の狂死、さ」と、毒舌家の病人は笑つて、「あいつが生きてるうちに、おれは死にたくない。」
 さう言はれるほど、義雄も隨分毒舌の方であるし、それをあとで聽いた渠は曾て獨歩の思想をまだ舊式だと批評したことがあるのを思ひ出したりしたが、今夜は甚だ勢ひがない。酒は平氣で人並みに飮んでゐたが、持病のむづがゆく且痛むのを頻りにこらへてゐた。
 花村は「鳥の腹」と云ふのを文藝倶樂部に出した男を捕へて、あの小説は描寫でない、下手な説明だ、きはどいところがあるのは構はないが、説明的だから、それを人に強ひるやうになつてゐる、挑發的だと云つて、發賣禁止になつたのも止むを得まい、などといぢめてゐた。
 藤庵は、或新聞記者に向つて、謙遜らしく、人生の形式的方面をどう處分してゐればいいのだらうと云ふやうなことを質問してゐた。
 西は内山や中里と共に頻りにイブセンやメタリンクやストリンドベルヒの脚本を批評し合つてゐた。
 かう云ふ別々な話がいつまでも別々になつてゐないで、互ひに相まじはり、長い食卓のあちらからも、こちらからも、機(はた)の梭(ひ)が行きかふ樣になつた時、義雄はその意味を取り違へたり、ただやかましい噪音が聽えたりする瞬間もあつた。それが如何にも殘念で、この耳だけに關して云つても、もう、これ等の人々と自由に話し合ふ資格がなくなつたのかとまで思つた。
「田村が乙に澄ましてゐやアがるので、今夜は少し賑やかでない、なア」と、株屋の番頭が云ふのが聽えた。「色をんなを持つと、ああおとなしくなるものか、なア?」
「けふは、何と云はれても、しやべる氣になれないのだ。」かう云つて、義雄は笑つたが、自分のいつも特別に注意を引くから/\笑ひも、それと好一對になつてゐる麹町の詩人の羅漢笑(らかんわら)ひと云はれるのに壓倒された。
 そして、花村の耳も鼻も目も内臟も、どこもかも健全で、而も巖乘(がんじよう)な體格が何よりも羨ましくなつたと同時に、獨歩の死んだ時、茅ヶ崎へ集まつた席で、義雄は自分が花村に向つて、君は僕等すべての死んだあと始末をして、誰れよりもあとで死ぬ人だと云つたことを思ひ出した。

 


 友人は、伊藤整の『日本文壇史』に、「龍土会」のことが書いてあるのだろうか? とも言っていたので、調べてみたのだが、どうも「龍土会」を取り上げていないようだった。(あくまでざっと調べただけなので、どこかに書いているかもしれない。)ついでだから、伊藤整は泡鳴をどう評価していたのかと思って、『日本文壇史』での扱いを見てみたのだが、『耽溺』と『泡鳴五部作』のざっとした粗筋を紹介しているだけで、きちんと「評価」していないことに今さらながら驚いた。伊藤整は泡鳴が苦手だったのかもしれない。「伊藤整全集」をこれもざっと見わたしたところ、やっぱり、泡鳴を正面から論じているものはなかった。

 それはそれとして、『日本文壇史』を読み返して、ハッとしたことがある。それは、『耽溺』以来、「田島秋夢」という名前で登場してくる友人を、ぼくは「秋」という字が入ってるからという理由だけで、勝手に徳田秋声だと思い込んでいたのだが、伊藤整は、はっきりと、正宗白鳥だと書いている。花袋を「花村」、藤村を「藤庵」なんて分かりやすい名前で登場させているものだから、「秋夢」は秋声だと思うのが順当だろうから、伊藤整の勘違いじゃないかと思ったが、今引用した部分をよく読むと、やっぱりぼくの勘違いだということが分かる。

 つまり、引用部分の最初の方「この月には田島秋夢と今一名渠と同じ新聞社にゐる人の名が出てゐた。」が証拠。この時期に、正宗白鳥は確かに読売新聞社に勤めていた。徳田秋声も読売新聞社に勤めたことがあるが、それは明治33年から34年にかけてのことで、この時点ではすでに社員ではない。この時点というのは、すでに泡鳴の『耽溺』が話題になっているのだから、明治42年ごろということになるのである。

 以前に書いたことを修正しなくちゃ。似たような偽名を使ったり、本名使ってみたり、全然関係ない偽名を使ってみたり、一貫性がないから困っちゃう、なんてブツブツ。

 ここに登場してくるいろんな人には、それぞれモデルがいるわけだが、分かりにくい。それでも「農商務省の山本といふ法學士」というのが柳田國男らしいとあたりはつく。彼が役人だったということは、どこかで聞きかじっていたからだ。だとすると、彼を連れてきた「西」というのは誰だろう、「歌詠みから株屋の番頭に轉じた男」って誰だっけ? なんて想像が膨らむが、まあ、このくらいにしておこう。きりがない。

 「龍土軒」の1階は、どうやら「玉突き場」になっているらしい。この頃、この玉突き(ビリヤード)が相当はやっていて、泡鳴も凝っていたらしい。『耽溺』にもその玉突きの試合の様子が具体的にエンエンと書かれているので、内容がさっぱり分からず閉口したものだ。そういえば、ぼくの子どもの頃にも、ぼくの町に「玉突き屋」があったのを思い出す。一度も入ったことはなかったが。

 自然主義の作家たちを中心にしたこの集まりの中で、義雄は耳を悪くしているために、会話がよく聞こえないことをひどく「残念」に思い、自分には彼らと自由に話をする資格もなくなったのかと落ち込む様子が印象的だ。そのうえ『耽溺』の評判があまり芳しくなく、せいぜい「耽溺はどうなるのだろう」というぐらいの反応しかない。泡鳴はたしかに、焦っていたのだ。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする