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日本近代文学の森へ (21) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その10

2018-06-17 10:01:15 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (21) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その10

2018.6.17


 

 義雄は、お鳥への執着に身を焦がす。もとの亭主とはどうなったのか、この宿屋で親しくなった大工と何かあったんじゃないか、などという疑念にとらわれるのだ。最初は、遊びのような感じで付き合い始めたお鳥だったが、次第にのめり込み、東京へ帰ってしまったお鳥に、まるで若者のような恋文まで書く始末で、ほんとうに、いくつになっても恋愛というのは困ったものだ。

 原稿料はなかなか来ない、宿屋の主人は冷たい、自分の書いた作品は世にいれられない、そんな苦しみの中で、絶望感に打ちひしがれる。勤め先の学校にも、試験の手伝いを約束していながら、それもすっぽかさざるを得ない。学校や校長への憤懣も吐露されている。そんななか、待望の原稿料がとどくと、いさんでお鳥のいる東京へ向かうのだった。

 お鳥が東京は帰りたがった理由のひとつに、このころ雨がひどく降り続き、水害の被害も尋常ではなかったことがあげられる。義雄も強がっていたが、はやり土砂崩れの頻発する甲州からは早く脱出したいと思っていたのである。



「素ツぽかしても氣の毒だが」と、義雄が思つてゐた約束の試驗手傳ひ日も遂に過ぎてしまつた。「あの鹿爪らしい校長や校長派の感情をまた損じたに違ひない。」
 然し、もう、學校の講師などはどうでもいい。自分は自分の思ふ通りにやつて行つて、教育界からは勿論、文學社會からも見棄てられたところで、その時はそれまでのことだ──
 學校の校長などと云ふものは、ただその地位を大事がつて、兎角、事勿れ主義をやつてゐるものだ。生徒の實力啓發など云ふことは、その實、第二、第三の問題にしてゐる。そんな内實も知らないで、世間體をばかりつくろつてゐる創立者や常任理事は馬鹿な奴だ。あの學校の理事は圓滿主義を以つて男爵になつた人だ。それも惡くはない。あの創立者は天秤棒のさかな屋からわが國有數の御用商人になつた。それもえらいと云へば云へる。そして、わが國や朝鮮に自分の名を冠した學校を二つも三つも建てて、それで男爵を贏ち得ようとする。それも貰へれば結構だ──
 ところが、學校は男爵を貰ふ用意の看板だけで、教育その物は殆ど全くどちらでもいいに至つては、あの拾五萬や三拾萬や五拾萬の金をただその土地や建築物が代表してゐるに過ぎない──
「いや、そんなことはどうでもいいのであつた。」かう義雄は思ひ返して、自分はただ自分の主義と主張と自己の存在とを確かめさへすればと、机の前にしよんぼりとかしこまつた。そして自分の一生懸命に努力した著作が斯く世間で持て餘されるのに憤慨した。
 この最後の憤慨の爲めに、つい、お鳥のことなどは全く忘れてゐた日であつた 待ちに待つた二論文の原稿料が揃つてやつて來た。
「旦那、二つもかはせがやつて來ましたぜ」と、宿の主人が嬉しさうにそれを持つて義雄の寢てゐるそばへ來た。
 渠は數日來失つてゐた氣力を一時に回復して、直ぐ床を跳ね起きた。そしてまだ正午に少し前なのを見て、たつた十五分に迫つてゐる汽車で出發することにした。
「ぢやア、ね、早く車を一臺呼んで下さい。」
「へい、かしこまりました。」
 主人は急いで二階を降りて行つたが、義雄も手早く革鞄に手荷物を纒めた。押し入れには、アブサントの舶來瓶の明いたのが二本ころがつたばかりになつた。渠はそれを二本ともわざ/\横手の窓から下に投げたが、小川のふちの石垣に當つて、かちやんと毀われたのを見て、この甲州といふ冷淡なかたきに復讐をしてやつたかのやうに氣持ちよく感じた。
 恥辱の旅──孤獨の宿──富士の高い峰が雲霧の間に見え隱れして、萬人の靈までも呑み下だす殘酷なおほ奧津城の如く臨見、壓迫する最も憂鬱な土地を、義雄はかう云ふ風にして逃げ出すことが出來た。
 土産はただはち切れさうに熟した葡萄の一と籠──この粒立つた葡萄の實にお鳥の張り詰めた血の若々しさを偲びつつ、渠はやツと目ざした汽車に乘ることが出來た。
 中央線のトンネルだらけは、夜汽車でやつて來た時も物凄くあつたが、義雄が今度鹽山の方から笹子トンネルを拔ける時、がツたん、がツたんと狹く籠つた大きな音に、自分のすかして眠らせて來た死が果して怒り出して、追ツ驅けて來たかのやうな怖ろしい壓迫を、七八分間も受けた。
 八王子へ來て、武藏野の廣く開らけた野づらを見た時、渠は、もう、目的の女の微笑する顏が見えるやうに、初めて人間らしく生き返つた。



 男爵というのは、いわゆる「華族」のもっとも低い爵位で、国家に貢献した者に与えられるものでもあった。実業家として名をなせば、男爵にもなれたのだろうが(三井家、岩崎家など)、実業だけではなく学校も作ったとなれば、より男爵になるのに有利だったのだということが、こうした記述から伺える。功成り名遂げた者が、どうして学校などというめんどくさいものを作るのかと、かつて不思議に思ったものだが、案外こんなところにその本音があったのかもしれない。もちろん、もっと純粋な動機の人もいたに違いないけど。

 そんな世の中にむかって泡鳴はさんざん悪態をつくわけだが、それが負け惜しみでないと自信をもって言い切れない。それは、「自分の一生懸命に努力した著作が斯く世間で持て餘される」からだ。懸命に書いても、評価されない。金が入ってこない。一方では、金持ちの漱石が書いた「通俗的」な小説(「坊ちゃん」)が大評判となる。

 こうした泡鳴の鬱屈は、切実で、身に迫って感じられる。

 明治の文学、それも特に自然主義系統の文学は、みな明治期の立身出世主義のレールからドロップアウトした人間から生まれている。鷗外、漱石などは、例外的だといえるだろう。もっともその例外的な漱石だって、結局は、帝大教授をやめてしまうわけだから、ドロップアウトには違いないのだ。

 自然主義の文学というのは、「無理想・無解決」を標榜したと文学史などではよく説明されたし、ぼくも授業でそんな説明もした覚えがあるが、実際にはそんな単純なものではないだろう。理想なんてやくたいもないものだ、人生に解決なんてないんだ、という人生観が生まれるには、それなりの理由がある。その「理由」の一端を泡鳴の小説は示唆しているような気がする。





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