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日本近代文学の森へ (17) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その6

2018-06-03 09:54:23 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (17) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その6

2018.6.3


 

 滋賀で中学の教師をしていた泡鳴は、東京へ出てきてからも生活のために、学校の英語教師をしていた。『発展』では、「○○商業学校」となっているが、実際には「大倉商業学校」である。ここに、30歳から36歳まで勤務している。その職を辞した翌年、小説『耽溺』で、小説家としてのデビューを果たすのだが、それがぜんぜん売れなかったことは、以前述べた通りだ。正宗白鳥の意地悪い批評によれば、「当時漱石は官立大学の教師であり、泡鳴は月給二十五円ぐらいの大倉商業学校の教師であったことが、作品に対する世俗の信用を異にした所以(ゆえん)で、さながら、書画骨董の売立に於て大々名の所蔵であるか、一平民の所蔵であるかが、買ひ手の心持に影響するのと同様である」ということになる。何しろ、当時の漱石の給料は、泡鳴の5倍もあったのだ。給与はともかく、今の時代でも、「大学教授」と「高校教師」とでは、世間の評価は雲泥の差だ。

 明治文学に描かれた「教師」像は、田山花袋の『田舎教師』をまつまでもなく、ただただ貧乏でみじめなものだった。小説だけではなく、多くの文学者が、生活のために教職にあった。そして、そのことごとくが「貧乏」と切り離せないのだ。

 泡鳴が教職にあったことを、今回の読書で初めて知ったわけだが、その教師としての生活はどういうものだったのだろうか。その一端が、この『発展』に書かれているので、引いておこう。


 學校では、然し義雄の教授振りに家で押さへてゐる活氣が溢れ出し、ひどく叱りつけることもある代りに、また全級を愉快に笑はせたりする。
 六年前、初めてここの教師になつた時は、生徒に親しみがなく、且、怒るのが目に立つので、最も不出來の生徒が一人、短劍を持つて渠(かれ)を暗夜の途に要したのが評判になつた。渠はそんなことには恐れないで、相變らず冷酷、熱酷な怒罵をつづけた。
「貴樣のやうな出來そこなひは、兩親へ行つて産み直して貰へ。」
「手前のやうな鈍物は、舌でも喰ひ切つて死んでしまへ。」
 生徒は遂に往生して、こんなことを云はれるのを最も恥辱だとして、渠の時間の學科はよく下調べをして來て、じやうずな説明を聽きつつ、明確な理解を得るのを樂しみにするやうになつた。
「田村先生の時間!」この言葉は一部の生徒の恐怖を引き起す符牒であると同時に、一般生徒には最も待ち受けられる樂しみであることは、義雄も自分で知つてゐた。
 渠は同じ學校の夜學にも出たことがあるが、それは失敗に終つた。出勤前に友人と酒を飮んだのが、教壇で例の通りの快辯を振つてゐる時に發して來て、いつの間にか椅子に腰かけて、心よくテイブルの上に眠つてしまつた。ふと目を覺すと、七八十名のものがすべて手を束ねて、ぼんやりとこちらを見てゐた。
 丁度その當時、渠は「デカダン論」といふ著を公けにし、現今の宗教、政治、教育等の俗習見に反對したのが、學校の幹部の問題になつてゐた。その上、或晩のこと、醉ツ拂つて藝者と共に電車に乘つてゐたのを生徒の一人に見つけられた。
 それやこれやの中を取る同僚があつて、渠は夜學の時間を斷わつてしまつたが、晝間の生徒に向つては、自分に對する心得を發表した。
「學校の門を這入つた以上は、おれも教師として神聖な者だから、飽くまでもその職權と熱心とを忘れないが、門を一歩でも出たら、もう、お前等とおれとは見ず知らずの他人も同樣だぞ——從つて、外でお前らと出會つても、おれは相手にしない、お前らも亦おれを先生などと云ふに及ばないし、お辭儀などは無論しなくてもいゝ。」
 すると、生徒のうちから、
「煙草を飮んでゐても叱りませんか?」
「酒に醉ツ拂つてゐてもいいんですか?」
「藝者を連れてゐてもかまひませんか?」
 などと冷かし初めた。渠は笑つてこんなことを云はせて置き、やがて、響き渡るほどのどら聲で、「默れ!」と一喝して、「ここは神聖な教場だ。」
 かう云ふことがあつてから、一層、渠は生徒間におそろしいが又懷かしい教師となつた。



 「じやうずな説明」なんて自分で言っているんだから世話はないが、まあ、無茶苦茶なことを言う教師ではあったけれど、英語を教える情熱はあったのだということが分かる。生徒も、どんなヒドイことを言われても、それは自分に落ち度があるからだと判断するだけの大人びた知性があって、ヒドイことを言われまいとちゃんと勉強してくる。その辺が、現代とずいぶん違うような気がする。

 「學校の門を這入つた以上は、おれも教師として神聖な者だから、飽くまでもその職權と熱心とを忘れない」というのは、今からしても、立派な覚悟だ。ぼくにはこんな立派な自覚はなかったから、それだけでも尊敬に値する。

 そして、「学内」と「学外」の明確な区別には、どこか日本離れした合理主義があって、泡鳴の「新しさ」がはっきりと感じられるのだ。

 この時代から何と100年以上(!)も経っているというのに、今の日本では、教師は「学内」と「学外」を明確に区別して生活することができない。「学外」でも常に「品行方正」な教師であることを暗黙のうちに、強烈に求められている。

 学校の外では、教師でも生徒でもないから無関係だ、挨拶すらしなくていいという教師に、生徒は、それなら、酒を飲んでいても先生は見逃すのですか? とからかう。それに対して、教師は、言わせるだけ言わせておいて、論理的には対応しない。ただ「ここは神聖な教場だ!」と一喝する。それに対して生徒がどう反応したかは書かれていないが、その後の叙述からすれば、黙ってしまったのだろう。

 生徒は、自分たちの言い分が、小理屈に過ぎないことをちゃんと分かっている。タバコを飲もうが、酒に酔おうが、芸者を買おうが、そんなことは、先生とは関係ない、自分の責任だ、という自覚がきちんとあるのだ。

 小理屈ではない、人間としての生き方の基本を、生徒はいつのまにか体得している。一人の独立した人間としてすでに生き始めている。だから、義雄の宣言も、いちおうひやかしはするが、心の中ではきちんと受け止めることができたのではなかろうか。






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