『新・復活』──キンダースペース30年の集大成
2015.2.7
『新・復活』は、創立30周年を迎えた劇団キンダースペースが、記念公演第1弾として上演されたが、キンダースペースがこの30年の間に追求し積み重ねてきたものが結実した文字通りの「集大成」となる見事な舞台だった。
劇場で配られたパンフレットに、原田一樹は、「リアルというのは私たちが無意識に持っている心情が動くということです。」と書いている。「リアリズムを志す者」としての原田ならではのこの定義に、驚かされた。こんなにも明快な「リアリズム」の定義をぼくは知らない。そうだったのか、と膝を打ち、そうだよなあと胸の奥で頷いた。
ぼくらの眼前にある現実を、「ありのまま」に描くことが「リアル」なのではない。ぼくらが、日々の平凡にしか見えない現実を生きているとき、「無意識」の中に何かが封じ込められている。(思えば「近代」は抑圧の時代だったのかもしれない。そしてその「抑圧」は、この今という時点で、さらに強まっている。)その「何か」、その「心情」が、「動く」。その「封じ込められた心情」が「動く」というのは、それが表面に出てくるということだ。ああ、ぼくがあの時感じていたのは、こういうことだったんだと、気づく。それが「リアル」だということなのだ。
それでは、ぼくらは、このとんでもない時代を生きている、あるいは生きざるを得ないぼくらは、いったいどんな「心情」を「無意識に持っている」のだろうか。それを探すこと、それを無意識の底から引きずり出すこと、そして舞台の上に、俳優の肉体によって顕現させ、観客の中にあるそれを意識させること、そのために、原田は、キンダースペースは、30年間に渡って、真摯な努力を重ねてきたのだろう。
原田の問いは「日本の近代とは何だったのか」ということに集約される。演劇にとっては、「新劇」とは「近代」の本質を追求し、敢えて言えばその暗部を抉りだすことによって、人間の真の生き方を模索する作業であったはずだ。けれども、今の世の中では、その「新劇」の使命はすでに終わったとばかり、明るく軽やかな演劇ばかりがもてはやされているように思える。そういう中にあって、原田はここ数年、日本近代文学を担ってきた様々な作家の作品にスポットをあて、「モノドラマ」という斬新な手法で、その問いを問い続けてきた。そして、次々と、忘れられた作品のなかに秘められた「無意識に持っている心情」を舞台に顕現させてきたのだった。それを観客たるぼくも、目を洗われるような思いで見続けてきたのだった。
そして『新・復活』である。トルストイの最後の長編小説、しかも、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』にははるかに及ばない、むしろ失敗作といってもいいこの観念的な小説に原田はあえて挑んだ。それは、ひとえに、かつて島村抱月と松井須磨子によって上演された『復活』が、なぜ当時の日本人の共感を得たのか、その芝居に日本人のどういう「無意識にもっている心情」が動いたのか、そして、現代、その『復活』を『新・復活』として上演することで、どこまで現代の観客が「無意識にもっている心情」に訴えることができるのか、あるいはできないのか、そうしたことを確かめ、その上で、キンダーの演劇の未来を構築していこう、そう原田は考えたのだと、ぼくは理解している。そしてその意図は、ぼくの予想を遙かに超えたかたちで実現された。
ともすれば冗長にながれ、独断的な観念論に傾くこの長編『復活』を、たった2時間半に見事に舞台化した劇作家としての技量の高さ、演出家としての卓越した手腕は、日頃の原田の作品を見慣れた者にはこと新しくもないことだが、男と女の、いつまでたっても変わることのない「リアル」な真実、これをひらたく言えば、男ってどうしようもないバカだ、そして女はどこまでいっても、そのバカな男に振り回されてしまうのだ、そして「愛」も結局はそこにしかないのだ、という粛然たる「真実」に、涙し、驚き、己を顧みて、あらためて、時代も人間もちっとも進歩してやしない、それなのに、ぼくらはこんなにも真実を必死で探し求めてきた「近代文学」や「新劇」を、あまりに軽視してきたのではなかったのかと反省もさせられたのだった。
舞台が幕を閉じ、キンダースペースの団員、そして客演の役者たちに、観客からは惜しみない拍手が寄せられた。ぼくも拍手をしながら、彼らへの敬意を新たにし、そして、この30年の間の彼らの果敢な挑戦、諦めない努力、演劇に対する誠実さ、それらのすべてが、しみじみと胸に去来し、キンダースペースの輝かしい未来を確信したのだった。
(2015.2.7 「新・復活」を観た翌日記す。)