祈
全紙二分の一
●
現在、国立新美術館で開催中の、「現日春季書展」への、ぼくの出品作です。
本文は、自作。以下の通りです。
祈
ぼくの体の
皮膚という皮膚が
一枚の 透明な
鼓膜であればいい
星が送る風に
ひりひりふるえる
夜の耳
ぼくの体のがらんどうを
ひびきながらのぼってゆく
声
ぼくの体が 一つの
水晶でできた
反響室であればいい
●
1984年に自費出版したぼくの唯一の詩集「夕日のように」に収録されている詩です。
どういうつもりでこの詩を書いたのか覚えていませんが
「教師」という仕事を、こんな風に考えていたのかもしれません。
いちおう、「自作解説」をしてみます。
第1連は、「自分」という存在が「一枚の鼓膜」であればいいということを言っています。
言い換えれば、「言葉を聴く」存在でありたいということでしょうか。
ですから「耳」と言ってもいいわけですが、よりイメージを明確にするために
「一枚の鼓膜」と言ったわけです。
「透明な」には、特別の意味はなく、「純粋な」ぐらいのイメージ。
第2連は、第1連を受けて、
何となく「詩的」にするために格好つけてる感じですね。
「星が送る風」っていうのは、よく分からないイメージですけど
「声」が「音」なら、「音」は「音波」ですから「風」のようなものだということでしょうか。
「星」は、「風=声」を送る存在ですから
他人でもいいし、本でもいいし、自然でもいいわけです。
何か、遠い存在が、「語りかけている」という感覚。
究極的には、もちろん、「神」なのかもしれません。
「ひりひりふるえる」は「敏感さ」の比喩。
「夜の耳」は、「一枚の鼓膜」の言い換えですが
やっぱり「声」がいちばんよく聞こえるのは、「夜」ですね。
第3連は、ちょっと哲学的。
「ぼくのからだのがらんどう」というのは
要するに「無我」のことでしょうか。
「おれが。おれが。」と自分のことで頭をいっぱいにしていれば
「声」が聞こえるどころじゃない。
おのれを「無」にして、からだの皮膚が「鼓膜」になって
そのうちがわが「がらんどう」なら、声もよくひびくはず、ということ。
第4連は、第3連をイメージ化して「からだ」=「反響室」としたわけです。
「水晶でできた」は美辞麗句ですが、第1連の「透明な」との関連から。
結局、教師としてのぼくの「つとめ」は
いろいろな「声」を鋭敏な感受性で聴き取り
己をむなしくして、その「声」を生徒に伝えることではないのか、
ということになるのでしょうか。
とても、そんな立派な教師になれたわけではありませんが
そういう殊勝な気持ちになったときもあったということでしょう。
●
ま、自作解説はこのぐらいにしておくとして
これを「書」にするのは、楽しくもまた苦しい作業でした。
出来映えは、ぼくには、「あ~あ」としか言えませんが
これからも、機会があれば
自作の詩を「書」にしていければと思っています。
●
木原光威先生が
畏れ多いことですが
ブログで取り上げてくださっています。