19 「しみじみ」という言葉
2015.2.1
フェイスブックにはまっているうちに、こんどは「タンブラー」というのを見つけた。画像を無限に保存できるらしいということで、試してみた。次から次へと水彩画の画像を投稿していくと、かなり大きな画像も取り込んでくれて、パソコンの大きな画面でみると、なかなか解像度もいい。しかも、ランダムに投稿しても、「タグ」をつけておけば、その「タグ」のついた画像だけを次々に見ていくこともできる。
例えば、ぼくのサイトで、「横浜」というタグをクリックすれば、ぼくの描いた横浜の絵が全部表示される。フェイスブックにはこうした機能はない(はず)なので、とても使い勝手がいい。それにフェイスブックは、次々に流れていってしまうので、ぼくみたいに一日の投稿が多いと、見ている人がちょっと油断(?)して何日か見ないと、もう過去の投稿を遡るのはメンドクサイ。だからだろうと勝手に思うのだが、1週間も前の投稿に対して「いいね」なんてする人はめったにいないし、まして、1ヶ月も前の「投稿」なんて、誰も見やしない。
どこかで誰かが、ブログはフェイスブックと違って「蓄積型」だから、ずいぶん前に書いたことが、突然読者を集めることがあるなんてことを書いていた。その時は話題にならなくても、ひょんなことで関心を集める出来事があったりすると「検索」でひっかかるのだろう、とその人は言っていた。
まあ、そういうプロみたいな人の話はともかく、画像ひとつとっても、その管理はなかなか難しいということだ。で、調子にのって、タンブラーにサイトを作り、そちらに、過去に描いた水彩画を投稿し続けていたら、突然、先日の朝に、タンブラーという会社から(?)メールが届いた。
メールの表題が、「Tumblrからの指令クリア:yoz03に100件の投稿をしました」とある。内容は、画像があって、「Tumblrで100件投稿しました!」とゴチックで書いてあり、その下に「この業績をしみじみ噛みしめるべきです。すでに100件は投稿していますよ。」とあった。
まず、表題にギクッとした。「Tumblrからの指令クリア」って、まるで軍事作戦ではないか。いったいいつそんな「指令」が来たというのか。そんな覚えはない。ぼくは勝手に投稿していただけで、使命感に燃えて「100件投稿」を目指したわけじゃない。第一、ぼくは「指令」とか「命令」とかいうものが大嫌いで、それに刃向かうことでこの65年の人生を生きてきた、といっては大げさだが、とにかく、天の邪鬼で、人と同じことをするのが嫌でたまらなかった。(それならなんでフェイスブックなんてやるんだ! というツッコミは勘弁してください。あくまで昔の話です。)だから、ついでに古い話だが、ビートルズが初来日したときだって、何の興味も示さず、ひたすら日本民謡を練習し、遠足のバスの中で得意になって歌っては友人や教師のヒンシュクをかってきたのだ。
大学時代も、「筑波移転反対闘争」に共感しながらも、集団で陶酔的に行動することに嫌悪を感じて、すぐに離脱し、大学4年間をたった2人の友人と、「源氏物語」の読書会などをして堪え忍んだ。「闘争」も収束し、みんな「『いちご白書』をもう一度」を歌いながら会社やら官庁やらに吸収されていった後になって、反権力的思考だけはしぶとく生き残り、教職についてからは、「上の人」に楯突くことだけを心がけてきた。
そんなぼくに向かって、見も知らぬ外国人──たぶんアメリカ人だろう(別の日本人だって同じことだが)──から「指令」が来て、その「指令」をぼくが「クリア」したなんて、しかも、それを「褒められる」なんて、あってはならないことではないか。
それにしても、なんというヘンテコリンな日本語であろう。英語の直訳なんだろうが、元が英語なら「あなたは」という主語が必要ではないか。日本語は主語を省くのが一般的だから、日本語らしく訳したとでもいうのだろうか。
さらに、思わず笑ってしまうほどヘンなのが、「この業績をしみじみ噛みしめるべきです。」の一文だ。「業績」の大仰さには目をつぶるにしても、「しみじみ噛みしめる」というのはいったい元はどんな英語だったのだろうか。
この「しみじみ」ほど、日本語独特なニュアンスを持つ言葉はないと日頃から思っている。ぼくが中高を過ごした栄光学園には、ドイツ人を中心に、スペイン、アイルランド、ハンガリー、ブラジル、アメリカなどいろいろの国から来た神父さんやその卵がいたのだが、彼らに共通するのは「しみじみとした情感」に欠ける、ということだったような気がするのだ。それは彼らが欧米人だったからなのか、カトリックのイエズス会士だったからなのかは、いまいちよく分からないのだが、とにかく、彼らと「しみじみ」話すことはどうしても無理なような気がしていた。「天狗さん」と呼ばれた、ドイツ人神父だけは、かろうじて「しみじみ」分かり合えるような気がしたが、それも「気がした」の範囲を出なかった。
だから、驚き、思わず、え? 英語に「しみじみ」なんて言葉があったの? って思って、驚き、笑ってしまったのだ。
ちなみに、和英辞典で「しみじみと」をひいてみると、こんな用例が並んでいる。(プログレッシブ和英中辞典)
しみじみ反省する
feel sharp pangs of remorse
feel deep regret for what one has done
彼女の親切をしみじみと感じた
I felt keenly how kind she was.
A sense of her kindness sank deep into me.
彼のことをしみじみと思い出した
I 「thought fondly [gave myself up to memories] of him.
当時のことをしみじみと語った
He spoke with 「deep feeling [nostalgia] about those days. (▼with nostalgiaは「なつかしく」)
父の小言がしみじみと胸にこたえた
My father's reproof came home to me.
ここからも分かる通り、「しみじみと」に対応する「ただ一つの英語」はないわけだ。最後の用例の「came home to me」がなんか英語らしくて面白いが、逆にこれをどう訳せばいいのか難しい。「しみじみと」では無理があるような気がする。
「しみじみと(染み染みと)」という言葉は、13世紀ごろから日本では使われていた言葉らしくて、「日本国語大辞典」には、豊富な用例が収められている。その意味するところだけ引用しておくと
(1)心に深く感じいるさまを表わす語。しんみり。
(2)お互いの心にしみ入り、打ちとけて物静かなさまを表わす語。しんみり。
(3)心からそのように思うさまを表わす語。つくづく。よくよく。本当に。
(4)寒さなどが身に深くしみとおるさまを表わす語。
(5)じっと相手をみつめるさまを表わす語。
(6)心からいやで、つらいさま、こりごりであるさまを表わす語。
となっている。
また「デジタル大辞泉」では
(1)心の底から深く感じるさま。
(2)心を開いて対象と向き合うさま。
(3)じっと見るさま。
となっている。
「源氏物語」などでしきりに使われた「あはれなり」という言葉は、たいてい「しみじみと心に染みこんでくるさま」と理解されるわけで、「しみじみ」は「あはれ」と通じる意味を持つと考えてもいいだろう。これは、日本文化、あるいは、日本的な感性の一つの典型なのであって、そこには、対象と向き合い、こころを開き、こころを通じあわせて、対象と一体化する気分といっていい。親しい友だちと、久しぶりに会って、「しみじみと話し込んだ。」というのは、ただ、「熱心に話した。」とか、「時間の経つのも忘れて楽しく話した。」とかいったこととは違う、それこそ「しみじみ」としか言えない気分で共に時間を過ごしたということなのだ。
だから、タンブラーが、「この業績をしみじみ噛みしめるべきです。」というのは、決定的におかしいのである。というか、「誤訳」である。タンブラーに100の投稿をしたからといって、その「ぼくの業績」は「しみじみと向き合える」ほどの対象ではない。「へえ~、そんなにしたのかあ。おれもヒマだなあ。」ぐらいなもんである。
そもそも、しみじみ」と「べき」ほど遠い関係にあるものはない。「君は、友人に会ったら、しみじみと語り合うべきである。」なんて言えるわけないではないか。「しみじみ」は、自然にやってくる気分であり、それはいってみれば「賜物」であろう。だって、ぼくらがこころを開ける対象なんて、そうそうあるわけではないし、相手が自然だったりすれば、それこそ、こちらが望んだところでそんな場面にそう簡単に遭遇できるものでもないのだから。
まあ、そんなこんなで、このヘンなメールをきっかけとして、ぼくとしては、日本語の奥行きの深さと、それを異国の人に伝える難しさに「しみじみ」思いをはせたのである。そしてもちろん、逆もまたしかりであって、外国語も謙虚に深く学んで行きたいと、これもまた「しみじみ」思った次第である。
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