プルサーマル計画を憂慮する有志の会

原発問題に関して投稿します。

ネズミが止めた仮設配電システム

2013-03-21 09:37:01 | 日記
 (ご存知のように)18日、福島第1原発で再び起こった「電源喪失」で、1、3,4号機の使用済燃料プール及び共用プールの冷却装置(さらに汚染水浄化システムなどを含めた9施設)が止まりました。ちなみに、電源回復まで29時間掛かった共用プールには、6,377体の使用済燃料が収められています。(全体で1,000体を超えます)いずれにしても、このような大規模な電源喪失が再び生じてしまったことは、事故が未収束であると言うことと共に、施設や様々なシステムが仮設の脆弱なものであり、復旧していないということをあからさまにしました。

 この電源喪失の原因は、1匹のネズミでした。ネズミが配電盤に接触し、ショートさせたのです。しかし事故を拡大させたのは、人為的なミスです。本来2系統ある配電システムを、津波対策工事の為に繋げていた為に停電が原発全体に及んだとのことです。また、原子炉に設置したバックアップ電源が、1~4号機の燃料プール及び共用プールには設置されていなかったことも、非常に大きな問題です。これでは、電源喪失によって起きた過酷事故の教訓が、全く生かされていません。本来なら全ての燃料プールにバックアップ電源を設置すべきですし、配電システムも、それぞれの原子炉1基が独立したシステムを持つべきです。

 今回ショートした配電盤は、原発の事故直後に、トラックの荷台に乗せられたまま搬入され、そのままの状態で屋外で使用し続けていたそうです。この「仮設」の状態が続く限り、同様のトラブルが頻発する危険性は高いままです。(TV番組に出演していた専門家によれば)建物内には本設の配電盤のシステムがあり、切り替えた、と言われていましたが、それは、今回のトラブルの後なのでしょうか?本当に切り替わったのでしょうか?良く分かりません。

24時間以上も冷却ができなかった1,3,4号機、まずは原発事故後に設置した電源車を(停電しバックアップもないのですから)直ぐに移動させ、冷却を再開させるべきでした。東電は、「時間的な余裕がある」との説明でしたが、それは冷却が出来ていての話です。先の過酷事故でも、当初は1,3号機は冷却が出来ていました。「時間的余裕」はあったのです。(冷却ができている間に)きちんと対応ができていれば、水素爆発は防げたはずなのです。今回の電源喪失事故でも、きちんとした対応ができなかった東電に、今後の事故対応や事故処理能力がないことは明らかです。

 事故も未収束、復旧も未だならない中、東電の能力に欠落があることがはっきりしているわけですから、国の強力な介入なくして、(原発作業員の被曝管理も含めて)この危険な原発の管理は不可能だと思うのです。事故処理及び復旧は、直接国が実施、統率すべきなのです。最大の事故原因である「安全神話」の元に、原発を推進し続けた自民党現政府は尚更、事故処理を東電に任せ切りにするのではなく、事故及び事故処理の責任を自ら背負うべきだと思うのです・・・

P.S. 増大し続ける放射能汚染水の対策も、全く進展しません。流入する地下水対策も、計画から1年半以上経っても、全く進みません。先日も武田先生が、建屋の手前で20mほどの井戸を掘って、地下水を海へ流すように(一日100トンの流入が防げると)提言されていました。このような容易な工事が、何故できないのでしょうか?何か(出来ない)理由があるのでしょうか?これもまた、私には理解が出来ません。原発敷地内には、3年以内に、汚染水の設置場所がなくなるそうです。仮設のタンクですから、耐久性にも問題があります。この工事もまた、国が責任をもって実施すべきです。「時間的余裕」は全くありません。即座に行って頂きたいと思うのです・・・

P.S.2 今回の電源喪失事故においても、東電の隠蔽体質が露呈しました。また、原子力規制委員会が発表したのも、事故から3時間後でした。事故依然と全く変わらない体質です。東電、国への信頼は益々落ちていきます。また、配電盤がネズミでショートするのは、業者によれば「よくあること」だそうです。「想定内」のはずなのです。コードの隙間から入り込んだようですが、仮設だからと、いい加減に済ませていた可能性が高いのです。正しく、あってはならないことだと思うのです・・・

P.S.3 被災2年後の3月11日、お母さんと妻、そして長男を亡くした男性が、お墓の前で「今を生きれば良いんです。生きるほうが辛いんですから。生きることが功徳なんです」と仰られていました。本当にその通りだと、強い感銘を受けました。その方の思いが伝わってきました。私は唯、手を合わせました。全ての犠牲者の方々に回向しますように・・・

by「プルサーマル計画を憂慮する有志の会」 (平成25年3月21日)