プルサーマル計画を憂慮する有志の会

原発問題に関して投稿します。

亡国選挙と続く亡国「アベノミクス」

2014-12-15 09:34:43 | 日記
 前回を約17%も下回る戦後最低の投票率(52%余り)、2人に1人が選挙に行かなかった、否、行けなかった安倍首相の「誘導」した「亡国選挙」は、文字通り「亡国」を予感させる(前回同様の)結果となりました。「経済優先で取り組んでいく」、安倍総理の開口一番でした。まだまだ続く地獄の亡国「アベノミクス」、国と民が疲弊していく、そんな長い長い暗闇の時を受忍しなければいけないのです。

 今回の選挙結果を米国のウォール・ストリート・ジャーナルは、「自民党の勝利は、安倍総理の人気を裏付けるものではない。連立与党は、弱体化した野党の恩恵を受けた」と分析、アベノミクスに至っては、「積極的な景気刺激策にも拘わらず、景気は低迷している」と評しています。アベノミクスによる「株バブル」の恩恵を受けた100万を超えたという「富裕層」を除けば、多くの国民は円安・物価高の負担に耐え、また企業の99,7%(雇用の7割)を占める中小企業はアベノミクス「倒産」の憂き目に晒されています。

 (香港では選挙の候補者すら選べないという圧制を敷く)中国の国営、新華社通信は、「(与党)勝利の要因は、自民党が強いからではなく、野党が弱過ぎるからだ。有権者には選択肢がなかった」と(珍しく冷静な)分析をしています。(白票を投じるしか)本当に「選択肢」がないのです。政党も、候補者も、選ぶべきものがないのです。セカンドベスト(次善)、サードベスト(次々善)、フォース・ベスト(次々々善)を選ぼうとしても、政党も候補者も滑り落ちていって残らないのです。それでも選ぶべきではないかと考えましたが、(経済もそうですが、政治も)「構造的」な問題なのです。自民党を民主党に塗り替えても、本質は何も変わりませんでした。この政治的空白状態は、そうした現実を有権者の多くが知ってしまっているからなのだと思います・・・

P.S. ジャーナリストの武田徹さんは原発に関して、「本当に原発のリスクを減らしたいなら、『原発やめろ』と叫ぶだけでは力にならない」、「何故原発が過疎地に押し付けられているのか。リスクを押し付けられている地元住民が、むしろ再稼動を望むのは何故なのか。原発の交付金がなければ明日の暮らしに困る過疎の現実がある」のだと、「いったん頼った原発をゼロにすれば、雇用や経済などで発生する覚悟が問われ」る、(基地問題や、処分場問題なども)「現存するリスクを広く薄く『痛み分け』することも考えねばな」らない、「原発を考えることは近代社会のアイデンティティーを問い直す」ことなのだと述べられています。(引用は『朝日新聞』)この「アイデンティティー」という言葉の意味は、近代社会の「本質」、「あり様」、「構造」そのものということだと思いました。その「構造」の中で私たちは生き、暮らしている、暮らしていかざるを得ないということだと思います。その「現実」を直視し、いくら犠牲を払おうと(基地や処分場、或いは原発(核)や自動車を)受け止める「覚悟」があるのか(嫌なら全てを放棄する「覚悟」があるのか)、それが問われているのだと思うのです・・・

P.S.2 武田さんは「アベノミクス」について、「アベノミクスは、格差の解消よりも、まずはリッチな人を増やし、その富をいずれ広く行き渡らせる」というもので、「年と地方の格差の中で原発をつくり、見返りの交付金で地元は身動きが取れなくなった歴史を繰り返すこと」なのだと指摘されています。まあ、近代社会のみならず、これまでの歴史を振り返れば、(人のすることです)こうした「構造」の中で同様の政策が繰り返されてきたに過ぎないのだと思います。パン屑(くず)が「お零れ」(トリクル)として落ちてくるのを有り難く受け取るしかない「現実」があるのです。でもその「パン屑」は、有害重金属で汚染されていたり、放射性物質が含まれていたりします。基地や処分場、原発(核)や自動車のように、健康被害のリスクと、そして命すら奪われる(或いは奪う側に立たされる)危険に満ちています。それでも、「お零れ」を拒否して生きる(全てを放棄する)ことは、容易ならざることだと思うのです・・・

P.S.3 ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんは、「原発は商業ベースにのっているとはいえない。新増設や再稼動のレベルに達していない」、ただ、「1回知ってしまった知識は・・・なかなか消せない。核もなくすのが一番いいんだけど・・・」と述べられています。年間世界で100万人が犠牲になっている自動車、使用中だけでなく、原材料の採掘時(フロント・エンド)にも、使用後(バックエンド)にも環境を破壊し、汚染をもたらす、それでも自動車がこの世界からなくなることはありません。核(兵器、原発)も自動車も、この世界の「構造」に政治的にも経済的にも軍事的にも、完全に組み込まれたものだからです。この「構造」を根こそぎ変えることなど不可能なことです。どんなに犠牲が払われようとも、それらを「有用」(「利」)と考える人間がいる限り、なくなりはしないということです。核兵器は要らない、原発も要らない、基地もいらない、処分場や焼却場もいらない(当然、ゴミの出る生活はしないということになります)、この「構造」の中で最も犠牲者が多大な自動車なんて(金輪際)乗らない、そう思う人が100人が100人になれば、この世からなくなる(この「構造」の中から抜け落ちる)のでしょうが・・・

by「プルサーマル計画を憂慮する有志の会」 (平成26年12月15日)

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