顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

常福寺…3つの山門と瓜連城址   (那珂市)

2018年03月01日 | 歴史散歩
草地山蓮華院常福寺は浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来、延元3年(1338)に開山され、応永12年(1405)に現在の地、瓜連城址に移され、佐竹氏、水戸家の庇護を受けて栄え、関東十八檀林の1つに数えられた名刹です。

本堂にいたる3つの門は江戸時代の建築で、まず参道の南端、本堂から300mの場所にある山門で、奥に楼門が見えます。

次に200mの位置にある重厚なその楼門、白蓮場という金色の扁額がかかっています。奥に唐門と本堂が見えます。

三番目の門、唐門です。敕願所というこれも金色の扁額がかかっています。

慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封後、徳川家康は朱印地100石を寄進、その後は水戸徳川家との関係が深く、初代藩主頼房の歿後は菩提寺として尊崇されました。

出羽国最上家の一族で、水戸徳川家と姻戚関係のある家老、山野辺家の歴代の墓所もあります。

歴代住職の墓でしょうか、卵型の無縫塔が並んでいます。約600年以上の歴史を物語っているようです。
この一角は中世の瓜連城の後で、今でも堀や土塁の跡が寺院の敷地に残っています。

延元元年(1336)、南北朝争乱の際、南朝方の楠木正成一族の楠正家がこの地で約1年間、北朝方の佐竹氏と戦いました。正家は同年12月、佐竹勢に包囲され、那賀城主那珂通辰の援護のもとに応戦しましたが、佐竹義篤に破れ、正家は兵庫湊川の正成の下に帰参し、正平3年(1349)四條畷で戦死、那珂通辰一族も太田市正宗寺で自刃し、廃城となりました。

本堂付近が本郭だったようで、現在はその裏手が城址公園になっており土塁や堀の跡がよくわかります。北西の端には源太郎稲荷神社があり、笠間稲荷の紋三郎狐の兄弟で、川を守ったという源太郎狐の伝説が残っています。

西側にはそれと分かる空堀があります。平山城で、現在の瓜連宿全部が城郭内にあり、残存する土塁、空濠をつなぐと、二の丸・三の丸をもった相当大規模な城郭であったことが想像されますが、南側のその部分は市街化されていて明確な縄張りは分かりません。