顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

ふたたび結城寅寿…仕掛けられた罠

2018年08月21日 | 歴史散歩
茨城県立歴史館でのギャラリー展「結城寅寿―仕掛けられた罠」が終わりました。2017年に「長倉城と結城寅寿の墓」という拙ブログを載せたことがありましたが、今回驚くべき史料が展示され、新たな歴史の一部が明らかになりました。

第9代水戸藩主になった斉昭は、天保11年(1840)郡奉行などの実務には改革派を多用し藤田東湖を側用人上座に登用したのに対し、門閥派の名門結城寅寿を若年寄(参政)として藩の重臣に据え、両派のバランスを取りながら藩政改革を進めました。
ところが弘化元年(1844)、斉昭は幕府から藩政の問題7か条を詰問されて謹慎、やがて隠居を命じられ、改革派の東湖らも失脚します。一方で門閥派の首領となった寅寿は表面上の処分を受けながらも事件後の藩政の実権を握りました。

裏切られたとの復讐心に燃えた斉昭は自らを架空の江戸商人「紙屋長兵衛」になりすまし、寅寿の反逆の証拠を集めようとした一部始終が宇和島藩伊達家の「水戸一件結城寅寿」史料として現存しているそうです。
同文書によると、紙屋長兵衛の番頭貞之助を名乗る男が、寅寿の家臣庄兵衛に近づき寅寿を裏切る密談した記録と、庄兵衛が寅寿の悪事を密告した肉筆証言の写しを手に入れますが、気付いた寅寿は追手を派遣したため、斉昭は親しかった宇和島藩主伊達宗城に庄兵衛を預け、護衛として神道無念流の達人菊池為三郎を付け、この潜伏は10年近くに及びました。

菊池家の子孫が歴史館に寄託した史料から、斉昭から菊池に宛てた生々しい命令書などが今回発見されました。末尾には焼却せよと書いてあるのもありますが、木箱に一連の史料とともに残っており、新たな史実を語ってくれています。

その後嘉永6年(1853)のペリー来航を機に幕府の海防参与となった斉昭は復権を果たし、水戸藩の改革派も再び召し出され、一方の寅寿は不義不忠の罪により長倉陣屋に幽閉されます。

さらに安政2年(1855)の大地震にて改革派の東湖が圧死してしまい、寅寿が「東湖は大量の人物なれば我を殺さず永の預けとしたが、東湖斃れし上は天狗等が我を憎み死地に陥れるだろう」と言った通り、その7か月後に幽閉先の長倉陣屋で処刑されました。享年39。


寅寿の最期について拙ブログでは、山川菊栄の「覚書 幕末の水戸藩」の久木直次郎他らが無理やり首を斬ったとしましたが、「故老実歴水戸史談」による長倉松平家の介錯人太田勘太夫による斬首、その他に藩庁への報告書「探奸雑書」による寅寿の自決説が紹介されています。しかし「ただ一度のご吟味もなく」と寅寿が要求し続けたことはいずれにも載っており、確かだったようです。
歴史館の展示解説資料に、国会図書館デジタルコレクションの「故老実歴水戸史談・久木直二郎翁物語」にも掲出の寅寿の座敷牢らしき住居図と、当日の生々しい執行人の配置図が載っていますが、本当の真実は歴史の闇の中に埋もれています。

隣地の蒼泉寺の住職が、藩命によって「打ち捨て」とされたのを憐れんでひそかに寺内に葬り、その後結城家の縁者によって墓石が建てられたと言われています。ただ今回の文書では近くの寺で始末せよ云々の文字もありました。

ところで元禄7年(1695)2代藩主光圀公が、家老藤井紋太夫を有無を言わさず自ら手打ちにした一件は、光圀失脚を画策する柳沢吉保に内通したためといわれていますが、この真相も不明です。いずれにしても絶対君主の江戸初期から160年、藩主といえども証拠、証言を集めての糾弾が必要とされたのでしょうか。
やがて藤田東湖の死(1855)と結城寅寿の処刑(1856)、そして当事者の斉昭の死(1860)によって水戸藩は、まとめるリーダーを失って混迷を極め、約8年にわたる凄まじい藩内抗争に突入していくことになります。

なお長倉陣屋は、初代頼房公の八男賴泰が家老格の支族松平家として3000石で独立、9代賴位の時に斉昭の命により佐竹時代の名城、長倉城址に陣屋を築いたものです。
この賴位は後に支藩宍戸藩の8代藩主となりますが、その子9代目賴徳が天狗党の乱鎮圧の際に策略により切腹させられ、藩は改易となってしまいます。明治になって朝廷により賴位の10代藩主としての再襲が認められ復活しますが…。
三島由紀夫の高祖父としても知られています。
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