顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

天妃尊と東皐心越(とうこう しんえつ)

2020年12月21日 | 歴史散歩
天妃尊は1000年ほど前から中国沿海部で信仰されてきた「媽祖」とよばれる航海を守る海の神で、文化大革命ではこの媽祖信仰が禁止されましたが、今でもまだ奥深く信仰が残っており、特に台湾では篤く信仰されているようです。

さて17世紀前半に明が滅び清の時代になると、迫害を逃れて日本に渡ってきた僧侶の一人に、高僧として名を馳せた東皐心越がおります。彼は日本各地を旅したため、中国の密偵と疑われて長崎に幽閉されたのを水戸藩主徳川光圀公に助けられ、天和3年(1683)水戸の曹洞宗天徳寺に移り住みます。(水戸市河和田にある現在の天徳寺です)

天徳寺はその後城下の河和田に移され、そのあとに寺領100石の独立本山として建立されたのが現在の壽昌山祇園寺であり、心越禅師がその開祖ということになります。(水戸市祇園寺にある心越禅師廟です)

光圀公は、心越禅師が日本に渡ってくるときに航海の安全を祈って持ってきたという天妃尊(媽祖)像を3体作らせ、領内の航海・漁業の要衝に守護神として祀らせました。(小美玉市小川の大聖寺天妃尊廟の写真です)

その一つは大洗町の那珂川河口右手の天妃神社に安置されました。現在では弟橘比売(おとたちばなひめ)神社になっていますが、案内板の表示や地元では天妃神社で通っているようです。

海門橋の側の小高い山の上に建てられた社には「大きな行燈を御こしらへさせ、夜々燈明を御かかげさせ、海上より湊の目印に被成候」と伝えられています。


拝殿前の弟橘比売神社由来によると、「当社の御祭神は弟橘比売命である。元禄3年(1690)に時の水戸藩主徳川光圀公が明の高僧心越禅師の持ち来った天妃の像をここに祀り天妃山媽祖権現を創祀した。海上風波の難を救い給う神として漁民悉くこれを信仰した。天保2年(1831)藩主徳川斉昭公の代に天妃像を引き上げ御祭神を弟橘比売命と改めた。(一部省略) 」とあります。

もう一つの天妃尊像が安置された社のある北茨城市の磯原海岸に突き出した天妃山は、国土地理院の地形図に載っている茨城の山では二番目に低い標高21.2m、一番目の低山は東海村の天神山(17.4m)は拙ブログ2019.10.12で紹介させていただきました。

天妃山由来では、「その昔朝日指峯と云い薬師如来を祀ってあったが、元禄3年(1690)徳川光圀公が其の像を村の松山寺に移し唐の高僧心越禅師の奉携してきた天妃神を此処に祀り磯原大津の海の守護神とした。それより此の山を天妃山と云う。その後天保二年(1831)徳川齋昭公が日本武尊の妃弟橘姫命を海陸の守護神として祀り弟橘媛神社と改めた。依って天妃神は合祀となっている。」とあります。

北茨城市役所HPの写真、太平洋に突き出した天妃山突端にあるのは山海館という歴史のあるホテルです。晩年はスパリゾートハワイアンズの経営でしたが、東日本大震災で被災し今は取り壊されています。

もう一つは水戸祇園寺の三世、蘭山の開祖といわれる小美玉市小川の大聖寺に安置されました。
この地区は江戸時代には水運のまちとして栄え、小川城址には水戸藩の運送庁が置かれ水戸藩御用河岸として大変な賑わいを見せていました。その運送庁の建物跡に建てられた水戸藩で初めての郷校「稽医館」が、やがて小川郷校になり天狗党の拠点になると、大聖寺も志士たちの屯するところとなり幕末の動乱に巻き込まれて明治3年(1870)には焼失してしまいます。


幸いなことに、天妃尊像は難を逃れ壇頭家に預けられ、のちに建てられた天妃尊廟に祀られています。今は大聖寺霊園となり、お彼岸には天妃尊像が開帳されているそうです。

稽医館跡の碑は小川城址に建つ小川小学校敷地内にありますが、この小学校も昨年3月で閉校になり新しくできた小川南小学校に合併されました。

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