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真壁城は中世にこの地を治めた真壁氏が、筑波山系の微高地を利用して造った平城形式の城跡で、広さは12.5㏊もあります。城址の碑の北側には加波山系の山が連なっています。
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本丸を中心に巡らした四重の堀と土塁、土橋などが良好な状態で残され、中世城郭の構造を知る上で貴重な城跡です。 平成6年(1994)に国指定史跡となり、現在発掘調査が行われ、史跡公園整備事業が進められています。本丸東の堀の先には筑波山、当時から城の栄枯盛衰をじっと見てきました。
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承安2年(1172年) 大掾氏の支流、真壁長幹によって築かれたと云われ、以後400年余り真壁城を居城として続きましたが、小田氏・江戸氏・結城氏など諸豪族の狭間にあって領地の維持に奮戦しました。特に17代真壁久幹(法名は道無1522~1589年)は、鬼道無、夜叉真壁と称された武勇の将で伝来間もない火縄銃を合戦で用い戦略に長けていたといわれています。最終的には佐竹氏に属し、関ヶ原合戦後佐竹氏に従い出羽国秋田角館城へと移り400年の歴史を閉じました。芽吹き始めた小高い山は、攻め手の陣になっていたかなどと空想を巡らしてしまいます。
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江戸時代に入ると藩主は浅野長政が5万石で入封、やがて笠間に移されると城は廃城、その後は天領や藩の飛び地になり、各領主が町中の陣屋に代官や役人を配置して真壁領を支配しました。
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その真壁陣屋跡に建つ真壁伝承館には、城跡や陣屋跡から出土の陶器などの遺物が展示されています。
下記の城郭図は桜川市教育委員会文化財課のパンフレットからです。本丸跡には真壁第一体育館などの施設が建っています。
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Google Mapと見比べると城の規模がよくわかります。
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