
大洗町埋蔵文化財企画展「太平洋を見下ろす大洗の王墓」が12月16日まで開かれ、その一環として発掘品の展示が12月16日までの土、日曜日に展示されています。
この王墓、磯浜古墳群は、大洗駅東方600mほどの太平洋を望む台地上にあり、既存の4基と最近発見された仮称・五本松古墳の合計5基の古墳が残っています。

現存する古墳の築造順は、姫塚古墳(前方後方墳)・五本松古墳→坊主山古墳(前方後円墳)→日下ヶ塚古墳(前方後円墳)→車塚古墳(円墳)で、畿内から遠いこの地方にしては早期の、4世紀代から5世紀初頭の築造とされています。

古墳の埋葬者は推定の範囲内では、鹿島灘、涸沼川・那珂川に近接しているこの地を支配した古墳時代の有力者の墓域とされています。発掘品からは大和王権と繋がりのある品が数多い中に、この地方独特の埴輪も立てて並べるなど、権力の規模と特質の一端を見ることができます。


姫塚古墳の現存する部分の全長は30m、高さ3.5mで、2011年の発掘調査で小型丸底土器が発掘されました。形状の破壊が進み、従来円墳とされていましたが、前方後方墳であることが判明しました。

坊主山(ぼちやま)古墳は未調査ですが、古墳の現存部分は長さ約55m、推定復元の長さは約63mの前方後円墳とされています。 住宅に囲まれているため全体像はなかなか掴めません。


一段と高い車塚古墳は、直径約95m、高さ13mの全国で3番目の規模の円墳です。
葺石(ふきいし)と呼ばれる崩落を防ぐ石が墳丘に敷き詰められ、この地域では初期の埴輪も並べられ、その周りには周溝と呼ばれる溝が掘られていたようです。

スダジイの大木に覆われた墳丘の一部しか撮れませんが、墳頂部、中段、下段の三段構成の一部が確認できます。

日下ヶ塚(ひさげづか)古墳は常陸鏡塚古墳ともいい、全長約103.5m、後円部径60m、同高12m、前方部幅25m、同高4.5mで、規模、副葬品ともに県内有数の前方後円墳です。写真の左手が前方部で右奥が後円部です。

昭和24年の調査では長胴壺型埴輪などの他に、後円部墳頂中央の粘土槨の木棺付近から4000点以上の副葬品が発見され、その一部の滑石の臼玉、勾玉、鏡、石で作った刀子、鑿などのミニチュアなどが旧大貫小学校で期間中の土、日曜日に展示されています。

この前方後円墳は、江戸時代の天保年間に(1836〜1842)水戸藩主 徳川斉昭(烈公)が外国船に備える海防陣屋構築の際に前方の一部が削り取られたとされています。海側の先端には土で盛り上げた一角があり、多分砲台の跡でしょうか。ただ当時水戸藩所有の大砲の性能では、沖の船舶には届かなかったという話もよく聞きますが…。

当時イギリスやアメリカなどの異国の船が沿岸に接近したり、異人が上陸したりするのに備えるため、水戸藩では大津(北茨城市)からこの磯浜まで陣屋、番所、台場など18か所、さらに連枝松川藩が夏海、大竹などに5か所の台場を造りました
この磯浜海防陣屋の建物は、元治元年(1864)の元治甲子の変(天狗党の乱)で激戦の舞台になり焼失してしまいます。

しかし、海を見下ろすこの高台は、権力を象徴する墳墓にも沖を見張る海防陣屋にも絶好の立地であることがわかります。

南方には筑波山、直線距離は約45kmでも冬空に双耳峰がくっきりと見えました。
なお、五本松古墳は平成28年に個人から寄付された土地です。昭和20年代の踏査でこの一帯には数基の円墳が把握されていましたが、その後の宅地化により現在では墳丘は存在せず、壺類の破片が出土しただけのようですが、4世紀代の古い時代の築造とされます。

ドライフラワーの先駆けで珍重されたため、この近辺では見られなくなったツルウメモドキ(蔓梅擬)の大木が藪の中で赤い実をびっしりつけていました。
しぐるるもまた好日の蔓もどき 斉藤 美規
蔓もどき情はもつれ易きかな 高浜 虚子
蔓もどき情はもつれ易きかな 高浜 虚子