昭和39年(1964)、洋画家朝井閑右衛門、小説家田村泰次郎と日動画廊社長の長谷川仁が、この笠間盆地特有の自然に恵まれた地にアトリエを建てたいという要望から「芸術の村」計画が持ち上がり、翌年には北大路魯山人が住居としていた茅葺き民家を北鎌倉から村の一画に移築し、「春風萬里荘」と名付けました。
この茅葺き入母屋造りの重厚な構えの江戸時中期の民家は、もともとは神奈川の豪族で大庄屋でもあった伊東家の母屋300㎡を、昭和の初めに北大路魯山人が、北鎌倉の星岡窯の母屋として、自らの住居にしていたものです。
「春風萬里」は、李白の漢詩にある言葉で、北大路魯山人が好んで使っていたといわれます。
さて、北大路魯山人は、明治16年(1883)京都上賀茂神社の社家に生まれ、はじめ書家として世に出た後、篆刻、絵画、陶芸、漆工芸などの多方面にその才能を発揮しました。
大正8年大雅堂美術店を開き、10年に美食倶楽部、14年には星岡茶寮を営み、料理に適した食器を求めて昭和の初めから作陶を始めます。様々な古陶を再現しつつ多くの技法を用いた自由な作風の評価は現在でも高まっています。
建物内部には「万能の異才」といわれ、万事に凝り性の魯山人の才と美意識が随所に見られ、また住んでいたままが残されているので、往時の暮らしぶりも偲ばせてくれます。
室内の右手の扁額は、草野心平の書「春風萬里」です。
ここは笠間日動美術館の分館にもなっていて月に一度絵画の展示替えが行われ、来訪時は長渕剛の作品が床の間に飾られていました。
名茶室「又陰」を手本にして自ら設計した茶室からは、龍安寺を模して造ったという枯山水の石庭の景が広がります。
昔ながらの三和土(たたき)の土間の右手はもともと馬小屋でしたが、魯山人は洋間として木煉瓦を敷きつめ、自然石の暖炉、手斧削りの棚板などで独創的な空間を創り上げました。
トイレに並ぶ自作のアサガオ便器が目を引きます。
広大な庭園は高低差を利用し、作為を廃した自然のままの佇まいを感じさせてくれます。
石段を登った先には、豪農屋敷から移設した長屋門があります。
睡蓮の池や太鼓橋も配されており、四季折々の自然と花が楽しめる静寂な空間になっています。
魯山人はつねに傲岸不遜というレッテルを貼られた一生だったようです。母の不貞で生まれ、それを知った父の割腹自殺、生後すぐに出された里子も養家先を転々とされ、長じては全て破綻した6度の結婚などが、人格形成に大きな影響を与えたといわれますが、美に向き合う直向きでしかも天衣無縫な姿勢が今でも共感を呼ぶのかもしれません。
有名な言葉に「富士山には頂上があるが、味や美の道には頂上というようなものはまずあるまい。仮にあったとしても、それを極めた通人などというものがあり得るかどうか。」というのがあります。