今週末の息子のスケジュール
金曜日:学校終了後、フットボールの遠征試合のために3時間かけバスで移動。毎回のフットボールの試合中、マーチングバンドが演奏することになっている。終了し、高校に戻るのが夜中の1時。頻繁にバスが故障することがあるので、1時よりも到着遅れることを見積もっておかなければならない。バスの中で、安眠できるように毛布を持ってきてくださいとの指導。1時に到着しても、高校から家まで、高速を乗り継いで20分はかかる。家に帰ってから、シャワーを浴びて寝るのは2時半くらいだろうか。
土曜日:朝の6時に高校集合。そのために朝、5時には起こさなければならない。息子は一晩中起きているよ、というが、そうしてもらうと親も眠れない。その日はマーチングバンドのコンテストに参加。会場までバスで1時間。もし決勝まで残ることになれば、夜帰ってくるのは、12時頃になるだろう。
こういうような、無茶苦茶なスケジュールが、1年に3度ぐらいある。普段の練習は火、水、木曜日。金曜日は、フットボールの試合のために演奏。土曜日にはコンテストが時々入る。
息子は、ハードなスケジュールを面白がっていたが、宿題やテスト勉強をする時間がほとんどない日もある。オリンピック選手でもあるまいし、こんなにコンテストに出る必要があるのかと思うが、これがスクールカルチャーであり、親や子が誇りとする高校生活のようである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本とは異なり、アメリカの課外活動は、親が送り迎え、ボランティアで様々な世話、資金集めのための数々の行事があり、その連絡関係のメールがどんどん届き、何が何だか分からなくなる。
大会のある日には、どこで何時に集まるのか、昼はランチを持たせたらいいのか、それともお金を持たせたらいいのか、おやつはいるのか、しかも予定がどんどん変わるのでそれにあわせて自分の頭の中も整理し、息子とコミュニケーションをとりながら確認する。メンタル作業である。
練習が終わり迎えにいっても、時間通り終わっていることはない。時々後片付けなども手伝わされているようだから、それが終わるのを待ち、家に連れて帰る。子どもが運転免許を持つようになれば、送り迎えはしなくてラクになると聞くが、高校生にラッシュ時の高速を運転してもらうのも心配で胃が痛くなりそうな予感である。しかも、高機能自閉症者が16歳の身分で運転しても、大丈夫なのだろうかと私は気苦労するが、オットはけろっとしている。
娘は娘で、放課後のバンドのセクションごとの練習、朝の数学のTutorning, 生徒会活動、毎週水曜日に参加する教会のユースグループ関係で忙しい。私は、送り迎えの運転手である。お金のある人は、運転手を雇ってやりくりしているようだが、今のところはその余裕はない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アメリカの大学側も、勉強ができるだけでなく、部活動や奉仕活動、リーダーシップなどに積極的に関わってきた豊かな人材を求めているというのが背後にあるようだが、これはアメリカの「競争社会」の価値観の反映だと思う。あれもやり、これもやりというような器用な人間ばかりいるわけではない。体の弱い子どももいるだろうし、家庭の都合でこのような部活動に参加できない子もいるだろう。高校になれば、アルバイトして家計を支えている子もいるかもしれない。
ヒラリー・リービー氏が、ハーバード、プリンストン、イェールなどのアメリカの名門大学は、移民のような「好ましくない人々」を締め出すために、スポーツやクラブ活動などに参加している「万能型人間」を求める入学許可基準を考え出したと書いている。http://www.blog.crn.or.jp/report/02/112.html
以前紹介した米仏の子育て比較本、Bringing up Bebeの中にも、子どもを様々なお稽古ごとに通わせるためにキャリアばりばりの女性たちが仕事をやめ、世話に忙しくしているアメリカの様子が描かれている。フランスでは、子育てのために仕事をやめる女性は殆どいないそうである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
気がついたら、娘のクローゼットの中はロゴ入りのTシャツだらけである。生徒会のTシャツ。バンドのTシャツ。高校のTシャツ。教会のTシャツ。サイエンスフェアーのTシャツ。夏のキャンプのTシャツ。何かの行事があるたびに、Tシャツをもらったり買わされたりされ、車のバンパーには子どもの学校や部活動のロゴ、家の前には部活動の名前の入ったサインを立てかけるのがアメリカである。
このようなチーム精神に感心しながらも、ため息をついてしまう私は、アメリカの中でまだお客さんなのかもしれない。