12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

遊び方

2008年10月01日 06時35分57秒 | Weblog

 独創性豊かな江戸時代の遊びについて、法政大学の田中優子先生のお話がNHKTVであった。

江戸の人の最高の遊びは、おいらんと遊ぶことだった。吉原では、客が遊女を選ぶのではなくて、遊女が客を選ぶと言う。

初回はおいらんが客の品定めをし、二回目はおしゃべりのみ、三回目にして馴染みになれようやく床入りとなるのだそうである。

吉原での遊びはいわば擬似結婚で、恋の文化なのだと難しい事を言う。従って、美意識に基づく粋な遊び方が必要だと言うのである。

なんとも肩の凝る遊びなのである、こんなことのどこが面白かったのだろうかと不思議でならないのは、小生に粋なるものが備わっていないせいであろう。

それでも、遊女とて結構大変だったようで、馴染みに手紙を出すと言う営業活動はとても大切であった。加えて床上手である事は、人気の源泉だったようである。

これを西鶴の描写を借りると「馴染み客に夢中になる」とおのずから床上手になるようである。

さらに、涙ぐましいのは、[一途な思いを心中立て]して、体に刺青で[oo命]と入れたり、もっと大変になると、「小指を切って」馴染みに誠意(打算抜きの恋)を訴えるなど、あくなき執念とでもいえる事までしたようである。

さらにさらに元禄十五年には「心中大鑑」なるベストセラーなるものもまで刊行され、心中を一躍脚光浴びる行為にまでしたのであった。

さて我はと見れば、ラジオにTVには間違いなく遊んで貰っているのであるが、パソコンはどちらかと言うと遊女と遊んでいるのではなかろうかと思いはじめた。

パソコンと遊ぼうと思うと結構ご機嫌取りが大変なのである、やれアップデート、それバージョンアップと次から次へと面倒を見なくてはならない。

時とすれば、ご機嫌をそこねてああでもないこうでもないと、一生懸命に面倒を見なくてはならないのである。 悪くすれば、この面倒見の時間が馬鹿にならないくらい多くなっているのである。

パソコンと馴染みになる事が実に大変なことで努力が必要なのである。 さりとて、加えて床上手であるはずはなく、涙ぐましいばかりに「一途な思いを心中立て」してくれるわけでもない。

厄介なものと馴染みになってしまったとは思うのだが、おっとどっこいこれがどうゆうわけかやめられないのである。

しょうがないので、ぶつぶつこぼしながら粋でもない遊びを続けなければならないようである。


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