悪童日記を含む3部作を読み終えて、彼女の作品にもう少し触れたいと思いました。
本作もまた、彼女自身の人生や、人生観が強く投影された作品でした。主人公のサンドールは、亡命先の国で、工場労働者として働いている。自由になるために、国を捨て、工場労働者になったのに、
それに、この人生は何なのか?
単調な仕事。
情けなくなるほどの薄給。
孤独。
彼には、人に言えない過去はあるが、亡命先での生活そのものは、住む場所も仕事もとりあえずはあり、客観的に見れば悲惨というほどではなかったが、圧倒的に孤独だった。実際、アゴタの周りでも多くの亡命者が孤独のために、精神を病み、自殺していったのでしょう。主人公も、そういう人たちと紙一重のところで、精神を保っている。そして、リーヌという思い出の女性を理想化し、その人に会って結ばれるのだということを支えに生きている。そして、ある日偶然、その思い出の女性が、現れ、二人は愛し合うのだが・・・・。
アゴタは、夫と子供と一緒に亡命したわけだけれど、孤独だったんですね。故郷とは人間にとって何なのでしょうか。彼女にとっては、周囲との”言葉の壁”が大きかったのはたしかですね。言葉と感情は強く結びついているのですから・・・・。そして、読めない。
ふつう、私は自分の頭の中に書くことで満足している。そのほうが紙に書くより易しい。頭の中では、すべてが易々と展開する。しかし書くやいなや、考えは変化し、変形し、そしてすべてが嘘になる。言葉のせいだ。
厄介なことがある。私は書くべきことを書かない。私はでたらめを書く。誰も理解することのできないこと、自分自身わけの分からないことを書く。夜、その日の日中ずっと頭の中に書いていたことを筆者するとき、私は、我ながらいったいなぜこんなことを書いたのかと自問する。誰のために、どんな理由で。
これは、主人公の言葉として書かれているけれども、アゴタ自身の言葉ですよね。この作品の中にも、わけの分からないことが書かれた章がいくつかあります。だけれども、それらは、決して読者である私の関心を物語からそらす様なことはありませんでした。それも不思議ですが、この感覚は、最近読んだ本でも感じたなと、思い出したのが、、”アパシー”です。
作家になる夢と孤独という点に物語のそして、作家の共通点が見出せるのですが、アパシーの作者は、死んでしまいましたが、アゴタは死ななかった。主人公が、 医者に「自分の死を書くことはできないよ」と言われるシーンがあります。彼は結局多くの人の死は書いたけれど、自分の死を書かなかった。でも自分の死も書けるということをアパシーの作者は証明しましたね。
この本で、作者が何をいいたかったのか、それがまとまった何かであるのだとしたら、私には受け止められませんでした。ただ、この中に書かれた、作者自身の叫びは聞こえたように思います。