原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

小奴・考

2012年04月20日 08時11分24秒 | 社会・文化

 前回に続く、啄木話。釧路の滞在中に石川啄木は「小奴」という芸妓を愛人としたと、伝わっている。小奴は昭和40年まで存命であって、啄木の愛人として、たびたび新聞や雑誌に登場したという(残念ながらその記事に接する機会はなかったが)。この愛人説は、当初から疑問に思っていた。当時、結婚はしていたが24歳の若造である。19歳の芸妓とはいえ、16歳から花柳界に入っていた百戦錬磨の女性。経験が違いすぎる。また、彼の日記に登場する女性の数が実に多い。そのすべてが啄木に気があり、それぞれを愛人にしたかのような雰囲気がある。果たしてそうであったのだろうかというのが、当初の素朴な疑問であった。

 

啄木をめぐる女性は各地で顔を出す。函館では美人教師、札幌では下宿の娘。釧路だけでも啄木に秋波を送る女性が二三人はいた。啄木はそれほど魅力的であったのか、という疑問がわく。昔の写真をみると、顔はまあまあ整っているようだが、身長は159センチほど。髪は短め、どこから見てもとっちゃん坊や(失礼!)。啄木が鮮やかに女性を描けば描くほど、それがフィクションのように思えてくる。とくに、日記に記された女性は、啄木の「上から目線」が際立つ。物書きの習性としてこうした書き方は、概ね逆が多い。というより作家の願望が表われる。小奴に対して「お身は決して俺に惚れては可けぬ」など、ぬけぬけと言えるだろうか。いくら明治の時代の男とはいえ。それほど剛毅な気性とも思えぬ啄木が、である。啄木が女性好きであることは明白なのだが、それほどモテモテであったかという疑惑が残る。

(啄木の句を小奴が書いている。博識の女性であったことをしのばせる美しい字体である) 

小奴とはどんな女性であったのか。残された文献にその答えを探してみた。あくまでも私見で、どこまで正しいかは分からない。だが、こんなふうに啄木の周辺を見つめる人間がいてもいいのではないかと、勝手ながら思う。所詮、私的なブログなのだから。

 

小奴について書かれたもので最初に目にしたのは、野口雨情のものであった。啄木が釧路を去って、約1年後くらいに小奴と出会い、その後そうとう時間が経過してから再会。大正年代に書かれたものらしい。だが、雨情という人はしょせん作家。物語にしすぎるようだ。それだけ想像力が高いとも言える。つじつまが合ないことが多い。例えば、啄木が釧路を出てから約1年後に、軍鶏虎のお座敷で小奴と会ったと語っているが、実は啄木が釧路を離れた半年後に小奴は結婚している。1年後には子供まで生んでいる。そんな時期にお座敷に出るであろうか。多少の疑問は削除しながら小奴をみた。

雨情が知る小奴と啄木の関係は、どうやら世間の評価に近い。啄木に奥さんがいることを知らされ、奥さんに申し訳ないと思い、途中から啄木に冷たくしたとか。またお座敷では「石川、石川」とはやしたてられ、商売がやりずらかったとも語る小奴。お金の無心もあった。結局、啄木が去った後、啄木の借金の返済を迫られたことまで語っている。啄木が釧路を去ったのは、小奴に振られた傷心のあまりとも語っていた。借金でどうにもならなかったという事も小奴が語っていた。

 

啄木の環境として、小奴の話は現実的にも聞こえる。だが、啄木の日記を読むと、啄木が釧路に来たのは明治41年の1月21日。釧路を去るのは4月5日。小奴に最初に出会うのは2月23日。つまり小奴と出逢って釧路を去るまで1カ月ちょっとしかない。男女の関係に時間の長さは関係ないと言っても、短すぎる。たしかに、1カ月余りの日記に小奴の名前が33回ほど登場する。それなりの関係があったことは分かる。だが、借金を肩代わりしたりするほどの深い関係であったかどうかは、疑問だ。

 

小奴は文学少女であった。書き遺した文字をみてもなかなかに知的な香りがする。彼女が啄木の文学的才能に注目したことは確かだ。援助もしたと思う。啄木の才能を開花させようとした釧路の一人であることは間違いない。

だが、彼女は啄木が去った年の11月に結婚している。半年後である。啄木に思いを残しながらの結婚と言われているが、果たしてそうであろうか。相手は啄木よりずっと前に釧路に赴任していた男性で、付き合いは啄木より長い。啄木と小奴の噂も当然知っていたはず。啄木を隠れ蓑にしていたということはないのだろうか。一方は芸妓、片方はきちんとした炭鉱のエリート社員である。隠れ蓑ということでなくても、二人には啄木との関係は了解済みであったとも考えられる。

 

小奴とは頭の良い女性であったと思う。啄木の死後、彼の名前が日本中に知れ渡る。その後、小奴は離婚し、本名の近江シゲに戻り、釧路で母が経営していた旅館「近江屋」を継いでいる。マスコミが頻繁に彼女を取り上げる状況となる。啄木の釧路の愛人として小奴にスポットライトが当たる。有名人も訪れるようになる。小奴は口数は多くはないが、自分の立場をきちんと守った。事実と違う話が独り歩きしても、むしろ、その方が良かったのでは。マスコミに登場することにより自分の旅館に良い影響がでるからだ。すべてが真実とは、思えない。だが、マスコミの騒ぎは、啄木との付き合い話を真実として帰結させたのでは。

 

この私の仮説を裏付けた人がいる事を最近知った。釧路在住の人で啄木の研究家である。彼が平成15年に小奴は啄木の愛人ではなかったと発表した。その中身はまだ残念ながら目にしていない。私の予想が少し当たっているのではないかと、ほくそ笑んでいる。今度、港文館にいってその内容を確認したい。その時は、もう一度小奴をについて語りたい。

 

小奴碑のそばには三首の句が添えられてある。

「あはれかの国のはてにて 酒のみき かなしみの滓を啜るがごとくに」

「小奴といひし女の やはらかき 耳朶などもわすれがたかり」

「舞えといへば立ちて舞ひにき おのづから 悪酒の酔ひにたちふるまでも」

 

*巻頭の写真は一番左が小奴の現役当時。一番左が晩年のもの)


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
いやぁ、面白い! (numapy)
2012-04-20 16:11:43
啄木は「三歩歩めず・・」ぐらいしか知らないので、勉強になりました。艶っぽい浮名を随分流してたんですね。釧路の人が啄木を愛する理由も分かる気がします。
それにしても詩はセンチメンタリズムに溢れてますね。当時の歌人たちのトレンドが偲ばれます。コピーライターにも○○調というのがありましたから。
返信する
文才はかなりでした。 (genyajin)
2012-04-20 17:07:22
その人間性はともかく、文学の才能は確かだったと思います。26歳と言う若さで急逝してますから、もちろんなんとも言えませんが、もしもう少し長生きしていたなら、野口雨情より、すぐれた文学は残したと思います。
そういえば、イラストレーターの日暮さんが逝去されたようですね。弟さんとは親交があったのですか。とりあえず、合掌。
返信する

コメントを投稿