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ゴジュウカラ(五十雀)のことである。とにかく素早い。1秒もじっとしていない。木の幹を縦横に走り回る。逆立ちするように幹を下る姿はまさに軽業師。木めぐりという別名もあるほど。何がここまで彼らを動かすのであろうか。特に天敵と呼ばれるものがいるわけでもない。そんなに焦らなくても、いいのではと、思ってしまう。おそらく、遠い昔に埋め込まれたDNAの指令がそうさせているのであろう。自分の意思とは無関係に操られているとしたら、少し気の毒。だが、自然界はそれほど無駄ではない。彼らの動きにもそれなりの理由があるはずと、理解できないまま、納得している。
雪が少なくなった山へ入ってみた。しかしまだ山は残雪が多く、奥まで入るにはちょっと無理。やむを得ず、入り口近くのいつもの木の下で待っていたら、やってきたのがゴジュウカラ。退屈しのぎにじっと彼の行動を見てみた。なるほどその素早い動きは、目で追うだけでも大変だ。カメラを構えて連射で撮っても、同じ動作がほとんどない。それほど動き回っているということ。この精力的な動きはどこから来るのか。身の軽さは忍者なみ。しかしながらこの素早い動きこそ、彼らが自然界で生き残るための最大の武器なのであろう。せつないほど必死に見える。懸命に生きているかのようなその姿に、がんばれ、もっと早く動け!と願っている自分がいた。
北海道ではどこでも普通に見ることができるゴジュウカラであるが、実は本州のゴジュウカラとちょっと違う。本州で見ることができるゴジュウカラを本家とするなら、北海道のものは亜種となる(どっちが本家かは知らないのだが)。北海道のものは正式にはシロハラゴジュウカラと呼ぶ。腹部が白い羽毛に覆われている。本州のゴジュウカラの腹部は黄色い。
かつて小林一茶は「むずかしや どれが四十雀五十雀」と詠んだ。見分けがつきにくいことを詠んだのであるが、これは本州のゴジュウカラを遠くで見たためであろう。北海道で見れば、その違いはかなり遠くでも分かる。色合いが全然違うからだ。できれば小林一茶に北海道のゴジュウカラを見せて、もう一句くらい読ませたい。「かんたんだ どれが四十雀五十雀」と、なるかも。
体長14㎝ほどの小さな体であるが、この鳥、意外に気が強い。餌場では他の野鳥を追い散らすほど。喰い意地が張っていると言えばそうなのだが、生来の攻撃的な性格がそうさせるらしい。といって、カラスのように団体行動をとるわけでもない。小さいながら懸命に生きている、という感じがする。
彼らの巣はキツツキがあけた穴を利用する。彼らの身体には入口の穴が大きすぎるので、泥で入り口を小さく細工して住まいとする。合理性と知恵を持った鳥である。餌を幹の割れ目に隠す習性もある。餌を見えなくするため、泥で隙間を塞ぐこともする。野鳥の中でも特殊な頭脳を持っていると言えるだろう。
なにげなく見ていたゴジュウカラであるが、彼らの性格を知るほどに親しみがわいてくる。目まぐるしく動く様を見ながら、子供のおもちゃにも適しているのでは、と思った。しかし、こんな野鳥を見慣れた子供は、落ち着きのない大人になってしまうかもしれない。
「たまにはのんびりしろよ ゴジュウカラ」
野性のゴジュウカラ、シジュウカラが何十羽も彼の掌から
ヒマワリの種を飛んできてはついばむ。まさに野鳥動物園の給餌と同じです。
それにしても、こんなに慣れちゃっていいのか?彼らの祖先は、恐竜だったはずじゃないか!
こんなに人懐きのいい恐竜がいたんだろうか?いつもそう思います。
そうそう、ヘンなこと思い出しました。40歳になった時の
自分への言い聞かせキーワードは…「人生、シジュウカラ」
50歳になった時は…もうお分かりですよね。そう、「人生、ゴジュウカラ」 そんなことを言ってた自分が懐かしい。
しかし、野生のウサギはそうはいかない。彼らは決して人間が与えたものを食べようとしない。餓死するまでがんばる。人間のものを食するまで、かなり根気よく接しなければならりません。絶対無理ではないが、かなりの努力が必要です。
その点、野鳥はルーズなのかも。なにしろ頭に入っている脳の量が極端に少ないですから。なんて鳥をバカにしてはいけないですね。彼らには彼らの生きる理由があると思いますから。これからも温かく見守ります。
しかし、ブログにすると写真はよく見えないですね。原本はもう少し鮮明なのですが、縮小するとこの始末です。