原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

弥生人・考

2014年05月09日 10時29分38秒 | 社会・文化

 

日本人のルーツを語る時、弥生人の存在が大きく影響していることは周知のこと。ところが、弥生人そのものについてとなると、諸説が噴出する。戦後で最も大きな影響を与えたのは騎馬民族征服説(江上波夫東大名誉教授)だろう。朝鮮半島系の戦争好きの民族がそれまで支配していた縄文人を滅ぼして原日本人ルーツとなったという説である。このほかにもいろいろある。水稲技術を持った渡来の弥生人が文化を持たない縄文人を征服して新しい文化を導入。それが大和朝廷の建国につながるという話などなど。しかし近年の研究では弥生人というものの存在に、かなりの修正が加えられている。そもそも「弥生人」と言う民族など存在していないからだ。

 

弥生時代は紀元前300年から紀元後250年ほどと言われている(これについても異論はたくさんある)。それ以前は縄文時代であり、その後に古墳時代が続き、大和朝廷はその頃から登場してくるのであるから、弥生人説に一理があるように思う。だが、弥生人そのものの定義についていえば、渡来人であることは確かだが、どういった民族であるかとなると正確性がない。弥生時代の人だから弥生人と言っているにすぎず、一つの民族を定義するものではない。江戸時代の人を江戸人と呼ぶに等しい。北海道のアイヌ文化時代の人をアイヌ(人)と呼ぶのと同じで、民族を語るものではない。

近年の研究で、弥生時代を形成した渡来人はどうやら中国南部の江南地方からであったことが分かった。つまり朝鮮半島からの痕跡はほとんどない。もっと明確なことは日本の稲のDNAは朝鮮半島の稲とまったく異なるもので、江南地方由来となっている。つまり稲作も人も半島を経由していないということなのである。むしろ水田技術などは日本から朝鮮に伝わったということが近年分かってきている。

中国江南地方からの渡来人と言うと、漢民族がルーツと思いがちとなるが、それもまた違う。当時の中国は春秋時代と言う大混乱の時期で、漢民族が急激に拡張していた時代である。つまり漢民族に追われ、故郷を捨てた人たちが東南アジアに拡散するように逃げている。今も少数民族として残る人たちだ。ミャオ族などの民族で、もちろん消滅していった民族もいる。こうした人たちの一部が海を渡って日本列島に逃れてきたのである。この人たちが水稲技術などの新しい文化をもたらした弥生人と呼ばれる渡来人なのである。つまり漢民族とは全く違う人たちで、しかも一つの民族ではなかった。彼らが共同で先住する縄文人と戦い征服するという事はおよそ考えられない。しかもその人数も大量とは考えられない。一部だけが縄文人の了解のもとに日本列島に住みついたということなのである。その証拠がある。

弥生人の特徴(縄文人に比べ面長、扁平顔、背が高い一重まぶたなど)を持ったと言われる人骨の発掘が一部地域に限られているからだ。九州北部と山口県の日本海側の一地域だけ。同時期に他の地域から発掘された人骨は大半が縄文人と変わらない。弥生時代にも絶対多数の縄文人が存在していたという何よりの証拠でもある。

このことは何を物語るかと言うと、渡来人たちと先住していた縄文人たちは混血しながら日本中に広がっていったということ。つまり縄文人をベースに渡来人が加わり、原日本人が形成されたということになる。つまり縄文人も弥生人も同じ「大和民族」と言うことになる。縄文人は弥生人に滅ぼされたわけでもなく、騎馬民族に征服された日本列島ではなかったということである。

大和民族が単一の民族ではないことはすでに分かっていることだが、かなり複雑。縄文人そのものも北方系から南方系が混ざっており、南方系には白人系(コーカソイド)も入ってくる。この話をすると長くなるので次の機会に譲ろう。

 

(左が縄文後期の男性。右が弥生時代の男性。国立科学博物館の展示、レプリカ)

弥生時代の歴史を北海道の古代史と重ね合わせると、新たなことも見えてくる。北海道は寒冷地のために稲作文化が到達せず、縄文時代が継続され(擦文などを経由)アイヌ文化時代になる。というのが一般的な歴史解釈である。最近となって弥生文化と隔絶していたわけではないことが分かり、鉄などの製造文化が入っており、畑作も行われていたという事実が分かってきている。

アイヌと呼ばれる人たちのDNAは縄文人ときわめてよく似ているということも分かった。ここでも縄文人と弥生人の関係とよく似た歴史が見える。もともと北海道には縄文遺跡がたくさんあり、先住の民として縄文人が生活していたことは明白である。アイヌ文化が縄文人の中から自然発生したわけではない。アイヌ文化を持った渡来人が北海道に現れたのが紀元後10世紀前後。この文化は明白にオホーツク文化と呼ばれるものだ。新しい渡来人があったことの証明でもある。江戸時代にはこのアイヌ文化が北海道中に広がっていた。そしてこの文化を継承する人たちを明治以後、アイヌと呼ばれるようになった。そもそも「弥生時代」と呼称されるようになったのも明治17年(1884ねん)のこと。現在の東京都文京区弥生の貝塚から土器が発掘され、この土器の文化の時代を弥生時代と呼ぶようになったことが始まり。弥生人の呼称もここからきている。アイヌ人と言う民族をさした言葉ではないのと同様なのである。

アイヌの人たちに縄文人のDNAが強く残っていることはむしろ当たり前で、オホーツク文化をもった渡来人との混血であることも既に証明されている。アイヌと言う一つの民族があったわけでもない。アイヌとやばれる人たちのルールも複雑(シベリア、樺太、千島などいろいろある。言葉も違う。アイヌの定義さえ定かでない)。つまり弥生人と同様で、縄文人との混血で現在の姿(アイヌ)となったと考えた方が無理がない。北海道に先住する縄文人を征服してアイヌ社会が完成したわけではない。つまり縄文人も弥生人も大和民族と言うなら、アイヌと呼ばれる人たちも同じ大和民族と言う結論になる。

 

となると、北海道の先住民をアイヌと決定した国会決議と言う根拠はどうなのだろう。いかにも政治戦略的な結論としか言いようがない。アイヌの権利とかが取りざたされるようになった。なにかが変であることに多くの人が気づいている。もしアイヌが北海道の先住民とするなら、樺太や千島の先住民(ニブフなど)はどうなるのだろうか。慰安婦問題もそうであるが、政治家が行った安易な決定が日本に禍根を残したことだけはたしかである。

「弥生」と言う歴史の定義さえ不明なままに勝手な推論をぶち上げて言論を展開してきた考古学者や歴史家の責任は大きい。それを利権に置き換えて蠢く「輩」がいることも忘れてはならない。


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2 コメント

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初めて知りました! (numapy)
2014-05-09 10:44:20
弥生人の由来が文京区にあるのを初めて知りました。
縄文人の名の由来は聞いてましたが…
そういえば、名前の由来を考えたことなかったなぁ。
その意味でアイヌはどこの言葉なんですかねぇ。
考えてみれば、わずか2000年前のことも、我々は定かじゃないんですね。
自分たちの由来さえ分からないなんて、大きな顔できませんね。
今生きてる我々だって50年後にはもはやほとんど闇の中かもしれませんね。
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人という意味 (genyajin)
2014-05-09 21:23:25
アイヌというのはアイヌ語の一つで「人」という意味。これはよく知られていることです。つまりアイヌという民族から生まれた言葉ではなく、人という意味をそのまま彼らの総称にしただけです。実は明治時代でもかなりの種類の違うアイヌの人たちがいたようです。言葉も習慣も違っていたとのことです。千島アイヌ、樺太アイヌなどなど、皆違う種族なのです。
日本人はいろいろな種族を総称して一つに呼ぶ癖があります。台湾の先住民は20種類ぐらいありますが、日本統治時代は彼らをすべて一緒にして「高砂族」と命名しました。アイヌも同じです。
弥生人もその当時渡来した人たちの総称にすぎません。一つの民族を語っているわけではないのです。
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