原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

怒りのベクトルは、一つの方向だけではない

2012年07月31日 07時45分43秒 | ニュース/出来事

 

オリンピックの影で印象が薄くなっているが、日本には今、怒りが渦巻いている。原発、いじめ、オスプレイ、消費税などなど。普通なら怒りのマグマが怒髪天を衝く勢いで日本を席巻、と思うのだが、意外にそうはなっていない。それぞれの問題に対する温度差というか、怒りの方向性がかなり違うからだ。それなのにテレビや新聞は一つの塊で語ろうとする。反原発運動を見るとよく分かる。いま百人に、原発はどう思うかと聞いたら百人が「NO」という。だが全員が同じ方向でNOを叫んでいるかというと、それは違う。そこにはものすごい開きがある。単純な「YES」と「NO」で判断できるわけがない。それが分かっていながら、わざと一つの方向で語ろうとする風潮に異議がある。

 

週末になると国会や総理官邸周辺が騒がしくなる。脱原発、再稼働反対のデモがあるからだ。テレビのコメンテーターと呼ばれる御仁が口をとがらせてまくしたてる。「このデモは本当に普通の人たちの集まりです」。「今まで声をあげなかった人たちが反対の声をあげ始めたのです」と。たしかに、これまでこうしたデモは左翼が主導するものであった。今は普通の主婦とかサラリーマンも参加していることは認める。だがみな同じ意見なのだろうか。ここが疑問なのだ。もっといえば、では原発をやめたらどうなるか、という道筋まで考えているのだろうか。とりあえずストップを言えば良いのか。疑問が次々に浮かぶ。だがそれに対する答えは、いまだ反対派から聞いたことがない。一部では原発がなくても電力は十分だと言う説を唱えるものもあるが、根拠は全く示されていない。山本太郎とか言う左翼の芸能人くずれが、「後のことは生き残ってから考えればよい。このままではみな死ぬんですよ」と言っていた。こんな稚拙な主張をまともな大人が聞けるわけがない。

 

原発の再稼働については、明らかに拙速であった。何一つ解決していないのに再稼働だけを決断した政府は、異常行動としか思えない。これは確かに責められるべきだ。官邸をとりまくデモは、この不満が90%を占めるだろう。だからといって、原発はすぐやめるべきだという脱原発運動と同じだろうか。そうはとても思えない。脱原発運動と混同してはならないのでは。

 

冷静に考えれば分かる。いま原発の再稼働をすべてやめ、停止していれば安全なのか。そんなことはない。原発の中にある使用した燃料棒が安全となるまでに、今から数十年かかる。つまり、再稼働しなくてもそのままに置かれていたら、危険性は同じ。東日本大震災並みの津波が襲ったなら、どこでも福島と同じ危険にさらされる。稼働していようとしていまいと関係ないのだ。だから再稼働反対だけでは何の意味もない。地震対策、津波対策の徹底がまず肝心なのだ。これを怠ったから政府への不信が爆発したのだ。

原発を新たに開発設置することは、この日本ではもう無理だ。核のゴミ問題が大きい。人類が処理できない核のゴミを土中深く埋めれば解決というだけでは原発の未来はない。どんなに原子力ムラが画策しても世論が許すはずがない。だが、原発ゼロにするためには、それに代わるエネルギーの開発が必要だ。自然エネルギーが主流になるには技術開発を含めて相当な時間がかかる。他のもので原子力と同等のエネルギーを持つものを開発することが急務だ。シェールガスやメタンハイドレートなどの実用化が有望なエネルギー源もある。その開発に全力を注ぐべきだ。これらが実用化するまで、どうするかを国をあげて考える時なのだ。その間、安全さえ保たれるなら原発の再稼働もあり得ると思う。これが現実的な考えだ。デモをやって再稼働反対のシュプレヒコールをしていても解決はない。デモ熱はいずれ冷める。そして何もなかったように元の木阿弥になる。これが一番まずい。デモをするならもっと効果的なデモにすべきなのだ。

 

オスプレイの反対運動も複雑だ。事故が強調され危険物の塊のように評価をされているけれど、今配備されている旧式のヘリコプターの事故率とそんなに大差がない。その割にはオスプレイが危険だとテレビなどで強調されいる。何かの意図なのか、それとも根本を知らないのか。事故の検証もかなりできていて、離陸後の追い風に対するパイロットの技術が云々されている。どんな航空機にもある事故に思える。たしかに事故が起きて、住民が巻き込まれたなら、日米安保が根底から揺らぐ。それを覚悟の上での持ち込みであることを政府は責任を持って主張できていない。ようするに中途半端な決断だから齟齬が生じる。百%安全な乗り物なんかこの世に存在していない。子供の喧嘩みたいな言い合いはもうやめるべきだ。

だいたい、オスプレイを沖縄の基地に配備すると言うことは十年以上前に決定していたこと。そのために普天間基地の移動があった。オスプレイは辺野古基地に行く予定であったのだ。民主党が普天間基地を残留させてしまったのがすべての狂い。鳩山元総理のバカなツケがこうした形で残されたのだ。愚かな総理を誕生させた日本人の責任でもある。あるアンケート(雑誌社)では、オスプレイの搬入に対し日本人の6割が容認している。オスプレイの危険性より、中国の危険性の方がはるかに強いことを、普通の国民は認識しているのだ。これが世論の姿だ。テレビ局が世論を操作するかのようにオスプレイの危険性を訴えているが、中国の危険に論が及ばない方が不自然だ。

 

いじめ問題も実に様々な方向を見せている。加害者の生徒が一番悪いことは間違いないが、隠ぺいに明け暮れた教育委員会、学校、市に大いなる疑問がある。親や家庭の問題も噴出。巷間には日教組をはじめ、組合、同和問題まで連動している噂もある。怒りの方向に迷いが生じるほど複雑だ。小手先の現象にこだわらずに、教育行政の根本にメスを入れるべき。しかしこれが大変。

消費税問題も同様。値上げ分でばらまき政策が浮上するなど、政治家や官僚の思惑がちらつくから腹が立つが、実情を言えば消費税率のアップには世論はそれほど抵抗していない。増税反対が旗印の小沢新党は、世論は我々の味方だと息巻くが、甚だ疑問に思う。

 

原発の未来についての公聴会が行われた時、電力会社の人間が発言者になっていて問題となった。これは、明らかに言論統制ではないだろうか。電力会社の人間は個人的意見を発言する権利もないというのか。共産主義国の言論統制と同じではないか。一部の過激な意見が言論を封鎖しているように見える。日本の民主主義は大丈夫なのか。いろいろな意見が複層するのが公聴会というものだと思う。やり方もまずいが、一部の反対派や賛成派の意向で左右される公聴会など意味がない。もっと公平であるべきだ。

 

寄り道、枝道、迷い道と、長々と書き連ねてしまった。言いたかったのは、かくもさように、反対や賛成と叫ぶ声の中には、いろいろな方向性があり、いろいろな形がある。つねに同一とはならない。一つの運動を起こし、大きなうねりをもたらしたいと思う人には不満な現象であろう。だが、民主主義とはこうしたものだ。逆に言えば、国民がこぞって一つのことを言いだす方がかえって危険だ。かつて戦争へまっしぐらに進んだ時、反対の意見が封殺された。その方がはるかに怖い。

その意味で、いろいろな方向に意見が飛び出す日本の世論の現状は理想とは言わないが、そんなに間違っていないのではないかと思う。彷徨いながら、少しずつ前に進むしかない。ただ決められない政治には、多少の苛立ちを覚えるのは確かだが。

 

*写真はエゾノシモツケソウ(蝦夷下野草)。バラ科。長い穂に多数の花が密集して咲く。花弁と愕片が45枚。花弁より長い雄蕊が4本。68月の道東で見ることができる。


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