原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

知床旅情・考

2011年03月18日 08時17分29秒 | 社会・文化
今は亡き名優、森繁久弥翁が昭和35年(1960年)に作詞作曲した楽曲「知床旅情」。映画「地の涯に生きるもの」の撮影で羅臼に滞在。映画の終了時に世話になった羅臼の人への惜別として作った曲である。その時のタイトルが「さらば羅臼よ」。その後「しれとこ旅情」として、自らが歌ってヒットした。さらに十年後の1970年に加藤登紀子がカバー(知床旅情)。これが空前の大ヒットを生む。知床ブームの先鞭となった。日本に残る名曲の一つだと思っている。しかしながら、この歌ほど、ツッコミどころ満載の曲はない。多くの人が知っている話だが、まとめて紹介したい。

(流氷で埋まったウトロ港)

まず、そのメロディ。この歌が発表されていた時から評判になっていたが、大正2年(1913年)に小学唱歌として誕生していた「早春賦」にそっくり。ほぼ同じ曲である。森繁翁が即興で作ったのなら、あり得る話かと思ってしまう。早春賦は「春は名のみや、風の寒さよ、」で始まる有名な歌。作曲は中田章氏、作詞は吉丸一昌氏であった。中田先生はいろいろな学校の校歌を作っている。「しれとこ旅情」が早春賦に似ていることは当時から知られていた。だが、特に問題とはならなかった。それにはある理由があった。この早春賦の元歌と思えるものが存在していたからである。それは「モーツアルトの春への憧れ」(1791年)という曲だ。これがまた早春賦と酷似している。真似したと言われてもしょうがないほど似ている。仮に中田先生が存命していたとしても、森繁翁に文句を言う筋合いはなかった、と思う。
たんなる私見だが、早春賦よりはるかに知床旅情の方が完成されていると思っている。翁が即興で作った歌ではないとも思っている。当時の人の話のまた聞きではあるが、東京へ帰る日の数日前から、一生懸命歌作りに没頭していたらしい。だからこそ、名曲になったのだと思う。歌詞も素晴らしい。森繁節を随所に感じさせる。

知床の岬に ハマナスの咲く頃
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘に登れば
はるか国後に 白夜は明ける

旅の情か 酔うほどにさまよい
浜に出てみれば 月は照る波の上
今宵こそ君を 抱きしめんと
岩影に寄れば ピリカが笑う

別れの日は来た 羅臼の村にも
君は出て行く 峠を越えて
忘れちゃ嫌だよ 気まぐれ烏さん
私を泣かすな 白いカモメよ 白いカモメよ

これが歌詞の全文。だがこれは、加藤登紀子バージョンの詞である。森繁翁のものは少し違っていることをご存じだろうか。二番の「今宵こそ君を」は翁は「君を今宵こそ」と唄っている。しかし、これは翁も公認していたらしい。意味が変わらないから。だが、翁がどうしても許せない変更部が一つあった。それが最後の「白いカモメよ」というフレーズ。翁は「白いカモメを」、と唄っている。「よ」と「を」の違いは大きい。私を泣かすな、の「私」が、「自分」となるか「カモメ」になるかの違いがあるからだ。翁は「私」こそ白いカモメであると詠んでいたのである。翁節の真骨頂がここにある。
当然、翁は加藤登紀子にクレームをつけた。しかしその時すでにレコードは世に出ていた。間に合わなかったのである。加藤登紀子は翁に謝罪するとともに一つの約束をする。コンサートなどその後のライブでこの歌を唄う時は、必ず「白いカモメを」と唄うことを。その以後のコンサートでは加藤登紀子は約束通り唄っている。NHKで加藤登紀子を見た時も、そうであった。翁との約束を守る加藤登紀子に思わず拍手した。その後この曲をカバーした人はたくさんいる。石原裕次郎もその一人だが、残念なことに、みな白いカモメよ、と唄っている。天国で翁は苦笑いしているにちがいない。

(羅臼から見た国後島)

この歌の詞についてはまだ言いたいことがたくさんある。
はるか国後(くなしり)に白夜は明ける、は、完全な間違い。白夜は北極圏を越えなければ見ることはできない。羅臼の対岸にある国後島に白夜があるわけがない。これは翁のイメージから生まれた言葉である。最近地理に弱い人が多い。国後島で白夜を見ようなどと思う人がいないことを願う。
ただ、翁は白夜を「びゃくや」と詠んだ。これは俗称であって、本来は「はくや」というのが正しい。しかし、歌の大ヒットにより「びゃくや」の方が一般的になってしまった。いまではNHKでさえ「びゃくや」と言うようになっている。これが翁の力なのだ。

(エトピリカ)

二番の歌詞の中に「ピリカ」が登場する。このピリカは何のことかと一時話題となった。アイヌの言葉で「かわいい」とか「美しい」という意味である。こんなことから可愛い娘という意味であるというふうに解釈されていた。私はこれは違うと思っている。たしかにアイヌの言葉には美しい娘と言う意味の「ピリカメノコ」がある。だがそれなら歌詞は「メノコが笑う」とするのが自然である。
歌詞の流れを見るとより分かる。三番には気まぐれ烏も白いカモメも登場している。二番もやはり鳥である方が自然だ。ではどんな鳥か。「エトピリカ」である。これもアイヌの言葉で美しいくちばしという意味の海鳥。ツノメドリである(パフィンとも言う)。千島列島からアラスカにかけて生息する鳥で、現在の北海道では絶滅危惧種になっている鳥だ。ひと時は厚岸や浜中に生息していた。歯舞・色丹周辺では今も見ることができる。エトピリカのためにも北方四島を帰せと、叫びたくなる。翁のイメージの中で、今や外国に奪われてしまった国後島とともにエトピリカへの思いもあったのでは。

こんなことを思って今一度「知床旅情」を聞いたり歌ってみると、今までとは違って感じるはずだ。ぜひお試しを!

なお、翁が知床旅情と双子とも言うべきもう一つの曲を作っていることをご存じだろうか。知床旅情を発表した5年後に「オホーツクの舟歌」を出している。メロディ(曲)は知床旅情のままで、歌詞が違う。国後や知床の海に対する思いは、こちらの方が強く感じる。この歌も実にすばらしい。70年代の半ばには倍賞千恵子がこの歌をカバーしている。これもまたいい。知床がまた好きになる。

*映画「地の涯にいきるもの」の原作は、「オホーツク老人」戸川幸夫著(昭和34年)。北方領土問題をベースにして一人の漁師の一生が綴られている。
*地震、津波、原発。溢れる悲惨な報道。それでも日本は諦めないし、立ち直れる。心を一つにして支援をしたい。歌も支援の一つ。がんばれ日本に、思いを込める。

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
慰問・・ (numapy)
2011-03-18 11:10:03
阿寒町の介護施設に慰問の依頼がありました。4月2日、です。
演奏曲目の最初に「知床旅情」をもってくることにしました。多分全員が曲は知っており、歌詞カードさえ渡せば歌えるのじゃないかと・・。「オホーツクの舟歌」も歌詞検討しましたが、やはり加藤登紀子の「知床旅情」で・・。歌詞はソラで覚えてるので、不肖ワタクシが歌います。いい曲です。少しでも元気が出るように、心をこめて歌いたい。
いいですね。 (原野人)
2011-03-18 16:51:01
森繁節をたっぷり聞かせてやってください。

先日、BSで「地の涯に生きるもの」の映画をやってました。40年ぶりに見ました。昔のウトロやオシンコシンが出たり、懐かしい羅臼の港を見ることができました。
今度の日曜日は「挽歌」の映画を見てきます。釧路の昔を見ることができるようです。
歌もそうですが、映像に残す凄さを感じています。
作詞&作曲 (シレトク)
2017-02-05 15:48:05
この映画ロケに同行していた者も今は少なくなりました。
まず、作詞作曲が森繁久彌であるこというのが事実と異なります。
宴席での余興にすぎませんでしたから、どうでもよかったのでしょうが、吉松安弘という人が9割方作詞作曲をしました。

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