原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

友よ、今を生きれ!

2008年11月12日 14時26分00秒 | ニュース/出来事
海の中から陸地となり、現在は湿原となった釧路湿原。その変遷には一万年を超す長い年月を要している。地球が誕生してから何十億年経っているというのだろう。その気の遠くなるような年月に比べ、地球上の生命体の寿命はまるで一瞬であるかのように短い。鶴は千年、亀は万年と言われ、長寿の代表にたとえられるが、一万歳のカメは見たこともないし、千歳のタンチョウなどお目にかかったことがない。地球上の命は常に生まれては消え、消えては生まれることを繰り返している。昔人が不老不死の妙薬をを求めた理由も、死ぬことへの恐怖がそうさせたのであり、つまるところ宗教というものを生み出した大きな要因であるのだろう。60歳を過ぎると、その死が直接的に感じられてくる。これもまた人間の通らなければならない摂理なのだろう。最近、ベテラン俳優、ニュースキャスターなどの逝去が連日のように報じられている。ますます、自分の身近で起こる事件を予測してしまう。そうした中で、

友の癌が再発した。

昨年、大手術を成功させ、各内臓から癌はすべて取り出されたはずであった。わずか一年の後に再発したのである。彼の衝撃はいかほどのものであったのか。想像でしかないが、十二分に感じることができる。彼の死がすぐそばに迫っているわけではなく、進歩した医学技術によりまだまだ生きながらえることも可能であると信じている。それでも、残念ながらかける慰めの言葉が思い浮かばないのだ。
人間は死に対して無条件に弱い。それは人間が避けては通れないもので、絶対的に回避不可能な事実であるからだ。宗教家は死後の世界に望みを託することができるかもしれない。私のような無宗教のものには、そんな慰めさえ空しい。だいたい、見たこともない不確定の死後の世界を信じろなどと説かれても、私にはまったく無理な話である。そんな私だから、友にかける言葉が見つからないのだ。

考えてみれば、人間の寿命は八十歳前後が平均。六十五歳となった現在の私に、あと幾ほどの命であるといえるのか。今、私は元気であるが、交通事故もあれば、突然の発病もあり得る。癌が再発した友より、早くこの世と分かれる可能性は限りなくある。仮に私が永らえたとしても、おそらく友と十年も違うことはないのでないだろうか。そう考えると、今更、友を思いやることさえ不遜なのではないだろうか。つまり、もう大差はないということ。こんな考えは二十代や三十代ではたぶん絶対に浮かばなかったであろう。

今、友に言えることは、自由に好きなように生きろということ。もちろん犯罪は困るが、それ以外なら好きに生きてほしい。未来のためにではなく、今を充実して生きることだ。それが明日への一歩となると思う。乱暴な言い方かもしれないが、子供や妻に多少の迷惑をかけてもいいと思う。子供のために生きることが親の務めなら、親に迷惑を受けるのも子供の運命であろう。それほど気軽に考えて今を生きてほしい。自然界に生きる動物たちは、明日や死後の世界のことなど何も考えずに生きている。毎日を懸命に生きている。宗教家はだから動物と人間の違いがそこにあるというだろう。だけど、懸命に生きる動物の姿のほうが、お祈りや宗教にうつつを抜かす人間よりはるかに崇高に見えるのはなぜなのだろう。本能で生きる生き方のほうが、はるかに自然で美しいものに見える。
死期の迫った象は群れから離れて一人で行動する。それは見た人間たちは、死出の旅立ちと評価していた。誰も知らない幻の象の墓場があるという、伝説さえ生みだした。だが、現実は全く違う。寿命が尽きる前の象は歯が悪く、他の家族と同じものが食べられなくなる。それが嫌だから自分勝手な行動をするだけなのである。一人にならなければ自分の食べられる物を食べられなくなるからだ。生きるために群れから離れているだけなのだ。自分の死期などまったく気づいてはいない。群れの中で倒れたり、傷ついた仲間を懸命に助けようとする象たちではあるが、一人で群れから去っていく仲間には何の助けもしない。それが自然界なのである。もちろん自然界に象の墓場など存在しないのだ。

友にあらためて言いたい。好きなように今を生きろ!これは、友へのエールであると同時の、自分に向けた言葉でもある。

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