原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

若者たち

2014年08月01日 12時39分00秒 | ニュース/出来事

 

最近あるテレビで「若者たち」というドラマが放映されている。全共闘世代(1965~1972年)には懐かしいタイトルである。1966年に放映されブームを呼んだドラマのリニューアルである。主題歌も5人の兄弟という設定も同じ。食卓を囲んで怒鳴り合う風景もそのままなのだ。しかし、時代背景が違うので内容は全く違う。懸命に昔の面影を再現させようという努力が垣間見える。今の人にどう映っているのかは窺い知れないが、昔を知っている世代には大きな違いを感じる。何が違うのだろう、直ぐには理解できなかった。ちょうど同時期、CSで昔の「若者たち」が再放送されていた。忘れていたものを探すようにそれを見た。

 

1966年と言えば、東京オリンピックが開催されて2年後。かすかな記憶だがもはや戦後ではないという言葉が新聞紙上に躍っていた。オリンピック景気を引き継いで、日本は高度成長へとまっしぐらに進んでいた。一方で60年安保の騒動を引き継いでいた時代でもある。大学生の中に共産党や社会党のオルグが入り込み、学生たちは国家権力に対する反抗心を熟成させていた時代でもあった。当時のドラマ「若者たち」は、こうした背景をストレートに持ち込んでいた。だからこそ、当時の若者の心をつかんだとも言える。

昔のドラマを見て、正直なところ驚きを感じた。当時はまったく普通に感じていたことが、今見るとものすごく異常に見えた。戦争の匂いが(第二次世界大戦)充満していた。例えば、戦争未亡人の苦しい生活、戦災孤児、戦場帰りの人の登場。今では死語に近い言葉や生活が連続する。なにがもはや戦後ではないだ。戦後をそのままを引きずっていた時代だった。しかし、当時はそれをなにも不思議と思わず受け止めていた。わずか50年に満たない前なのに、時がたつということはこんなにも感じ方を変わるものなのか。忘れかけていた思い出が脳に少しずつ蘇る。

社会の構造もまだ未発達だったことは確か。そのひずみがあらゆるところで出ていたのも事実。そうした不満や鬱積した心をダイレクトにドラマは再現していた。当時の若者たちの心をすくい取っているドラマだった。従って、怒りの矛先は国家に向かっていた。権力や体制というものにストレートにぶつかっていた。つまり、怒りは「外」へ向かっていたものであった。

 

ところがである、現代のドラマとなると怒りの向かうベクトルが違ってくる。昔と同じように家族同士のいさかいや社会に対する怒りが充満する物語となっているのだが、その怒りは「内」に向かうのである。激しく相手に怒りながら、そうは言っても自分にも問題がある、となる。たしかに時代背景が違うので、同じような形にはならないと思うが、時代が変わるということはこういうことなのだろうか。新ドラマを見て、何か違うなと感じた理由がここにあったと感じた。

例をあげると、劇団の仲間が初めての公演を控えて集めた資金を持ち逃げする。お金に困ったひとりの劇団員の犯罪だ。だが、ドラマでは犯した罪は重いがそれより夢とか自分たちの問題を取り上げ、罪を許していく。

昔なら考えられない設定だと思う。どんな理由があってもやってはいけないことがある。それを許すのが現代の「優しさ」なのだろうか。どうやら昔の世代と呼ばれる者には、現代の感覚が分からなくなってきているのかもしれない。これが48年という約半世紀の時の経過が生んだ、進歩なのか退歩なのかもわからない。

 

1960年代の日本は高度成長の波に乗りかかった時代であったが、一方では学生運動が急速に盛り上がった時代でもあった。67年、成田闘争、68年、東大紛争、69年、安田講堂事件、70年、よど号事件、72年、浅間山荘、と70年安保を軸に学生たちは闘争し、敗走していく。66年の「若者たち」はそうした学生たちの精神的バックボーンにもなっていたと思う。番組の作り手もはっきり言って左翼思想家たちであった。彼らは信じていたと思う。若者が日本を変えていくことを。だからこそ、怒りを外に向けて発信していたのである。

時代が変わって、新しいドラマにおける怒りは内に向けられるようになった。ドラマの作り手の考えが変わったのかと思った。だが、どうやら違う。劇中劇で演じられたのは60年安保をテーマした「つかこうへい」のシナリオ。彼らの中に全共闘思想がきちんと残されていた。現代的な解釈に置き換えようとしているのだろうか。内に向かう怒りで、世の中に変化を与えられるというのだろうか。昔の人間には理解できないのはともかくとして、犯罪者が出るのは社会が悪いのだからというオチにだけはしてほしくない。それだけは違うと思うからだ。

 

そんなふうに考えている時一つのニュースが飛び込んできた。中核派のアジトに警視庁が家宅捜査。63歳の非合法活動家が逮捕された。嘘の住民異動届けを提出した疑いが逮捕の理由。私が信じる元活動家の解説(彼のブログから抜粋)によると、非合法活動家とは中核派における人民革命兵士のこと。彼らは敵対する革マル活動家のせん滅を目的に組織。殺人はもちろん放火や爆弾テロの実行部隊であった。数々の凶悪事件を起こしている。ところが1990年代になると中核そのものが滅亡の危機に陥り、急きょ戦略変更をする。武装闘争から大衆運動(市民運動)に切り替える。人民革命兵士は無用の存在となってしまう。しかし、彼らが市民運動に関わることはできない。それで地下に潜るしかなかった。その一角が報道されたのである。

老年期を迎えていまだ過去の思想に縛られて人生を過ごしている人もいる。当時、絶対に正しいと思った思想が崩壊したことが分かっても、元に戻れない。この人たちの気持ちは同情というのではなく、分かる気がする。かつての若者たちがそこにいるからだ。ひょっとすると、彼らの心の背景には60年代の風景がそのまま残っているような気がしてならない。彼らは死ぬまで若者のままなのかもしれない。

 

今の若者たちは、どこへ歩き始めるのだろうか、これからの未来に向かって。過去の若者たちが参考にはならないことだけは確かだ。


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2 コメント

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痛い思い! (numapy)
2014-08-02 08:41:42
おはようございます。
この頃、ワタクシは明らかにノンポリでした。ギター担いで軟弱生活を送ってました。
「イデオロギーでは社会を変えられない」とか言いながら、
惰眠をむさぼってました。痛い思い出です。
ただ、この頃SFのトレンドがスペースドラマからイナースペースへと
テーマを変えたことは敏感に感じました。多分作家達の中に大きな変化が起こったんだと思います。
糸井重里は中核派の闘志でした。見事な転換を図れました。
彼はその後も変容し続けています。凄いなぁ、と思います。
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変容できる人とできない人 (genyajin)
2014-08-02 10:08:44
たしかに変容を軽くできた人とできない人がいるようです。私も変容した組ですから。でも広告界に入ったということは、彼にはそこしか道がなかったということもできます。そして変容していく道しかなかったのかも。
私もイデオロギーでは社会は変えられないとは思っていたのですが、ただ現状のままではだめだという思いの方が強かった。幼い頭の葛藤だったのかも。
今の風潮はもっと嫌ですね。罪を憎んで人は憎まず、というのがあります。それはその通りだと思いますが、犯罪を犯した理由がどんなものかにかかわらず、罪は罪です。罪は償わなければなりません。どんな理由があっても詐欺や窃盗まで見過ごすような社会風潮がいいわけがないと思ってます。犯罪は社会悪によって生まれることもありますが、罪を犯す人間に罪はないという理念は成り立たないと思うからです。
新しい「若者たち」を見て、そう思いました。
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