湿原を吹き渡る風の強さを物語るように、ワタスゲが揺れていた。風に震える白い雪の球は、支える人もなく不規則に振られるペンライトのようにも見える。白綿は、風にあおられ茎から離れ、新しい地を求めて旅に出る。その先はすべて風任せ。行く末を自分の意思で決められない宿命。それでいいのだろうかと思う反面、風に任せていれば考えることも努力することもない「楽さ」もある。風はいかにも気ままに吹き抜ける。そういえば、昔、風任せの人生も悪くないと思っていたことがあった。世間知らずの無能で愚かな考えと気付くのにちょっと時間がかかったが、そんな生き方に憧れをもっていた時期もあった。
人はなぜか「風」に生き方や考え方を重ねる例が多い。風が吹くとか、風が変わったとか、風に何かのきっかけを求める。堀辰雄は「風立ちぬ、いざ生きめやも」と言った(もっともこの一節はフランスの詩人パレリーの翻訳だったとか)。たった一作しか世に残さなかったアメリカの女流作家マーガレット・ミッチェルの作品が「風と共に去りぬ」。この小説のヒロインが最後に言った言葉が「明日は明日の風が吹く」であった。
「風」にまつわる歌も実に多い。中でも忘れられないのがボブ・ディランだ。Blowin' In The Wind.日本のタイトルが「風に吹かれて」。1960年代を代表する曲であった。当時のアメリカは公民権運動が盛り上がっていた。歌はこの運動の賛歌となった。この後アメリカが突入する泥沼のベトナム戦争では、反戦の象徴としてこの歌が使われた。自分の青春時代と重なり、忘れ難い。
ボブ・ディランは当時のフォークソングの旗頭として多くの若者の支持を得た。彼の後、メッセージ性の強い歌が世界中を席巻したのである。
だが、この時代の風潮に最も戸惑っていたのは、ボブ・ディランであったのかもしれない。公民権運動には多少の興味があったが、反戦などにはそれほど強い思いはなかった。彼の歌は自分のアーチストとしての表現方法の一つにすぎなかった。時代とのちぐはぐなすれ違いが、彼をロックに転向させる。すると、それまで彼を支持してきた世間は、彼を許さなかった。反逆者扱いしたのである。
日本でも同じようなことがあった。フォークの神様と祀りあげられ歌手がいた。彼の歌が学生運動のテーマソングとなった。だが彼はそうした自分に対する評価を拒否。ある日突然、音楽活動を中断してしまう。その歌手とは岡林信康である。
時代と結婚した歌は、作者のものではなくなってしまう。時代というレールの上で作者の意思とは全く違う世界に入ってしまうものらしい。ボブも岡林も時代という波に翻弄された犠牲者だったのかもしれない。
「風に吹かれて」で詠われたボブ・ディランの詞は、今も鮮烈に残る。
男はどれだけの路を歩けば、一人前と認められるのか?という問いから始まり、どれほど弾丸を撃てば、殺戮をやめるのか?どれほど人が死ねば、無益と思えるのか?と問いかける。そして、
The answer, my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind
友よ!答えは、風に吹かれている、と結ぶ。
誰もがつかみ取りたい願いであるが、なかなかつかみきれないもどかしさを、表現していた。こうした葛藤が当時の若者の心と一致したのだと思う。
この歌を今に合わせても、使える。
どれほど放射能を浴びたら、危険だと分かるのだろうか?どれほど総理を続けたら、日本が崩壊すると気付くのだろうか?答えは、風の中で彷徨っている。
昔あった広告を思い出した。たしか、車(トヨタ)の広告だった。風力学から車のデザインが生まれたことがテーマだったと思う(車種は思い出せない)。キャッチフレーズが「友よ、答えは風の中にあった」。明らかにボブ・ディランの歌詞が下敷きで生まれたフレーズである。ボブ・ディランを知っている者には良く分かる言葉でもあった。
ワタスゲは風に乗って新天地に旅立つ。そして到着した場所で新たな芽を出す。ワタスゲの生息には湿地帯が最もふさわしい。だが、風の向きで、彼らに適した地とは全く違う場所に到達することもある。そんな時は彼らは静かに消滅するしかない。風に吹かれて飛び回る自由は、生きていけない不自由さも背中あわせに持っているということ。生き残れるかどうかも風次第。答えは、やはり風の中。つかみきれない願いを象徴するかのように、ワタスゲは原野を彷徨う。
*ワタスゲ:カヤツグリ科の多年草。6月から8月に咲く。花の後、花被片が白長毛となって伸び、綿ボールのような果実を結ぶ。別名、スズメノケヤリ、マユハケグサとも言う。写真は霧多布湿原で2011年7月に撮影。
ヒンドゥー「ヴェーダ科学」では「ヴァータ」、気ままとか自由とか訳されてますね。
そうそう、最近「ヴァータ」を忘れてた!いい風が吹いてるのに・・・。
・避暑の宿窓のカタチに風抜ける
風はいつも自由な香りを感じさせてくれるから。
そんな[風]にあこがれた若い時代を思い出しますが、ほんとうに風になってしまうと、意外につまらないものです。やはり、いろいろな不自由がある方が人生楽しいようです。不自由でも中国のようにはなりたくはないですが。