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やんまの気まぐれ・一句拝借!

俳句喫茶店<つぶやく堂>へご来店ください。

人類を放し飼ひして山眠る をがわまなぶ

2016年11月16日 | 俳句
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をがわまなぶ
人類を放し飼ひして山眠る
山眠るが冬の季語で冬山の雰囲気が季語となっている。因みに春は「山笑ふ」夏は「山滴る」秋は「山粧ふ」と言ったところか。春夏秋冬の季節は巡り、人はこれを楽しむ。春のピクニック、夏山の本格登山、秋の紅葉狩り。こうした人々の行動も一巡したところで山は眠りに入る。どうぞご自由にと放り出された人々は暖かさを求めてそれぞれの居場所へ向かう。朝日新聞「朝日俳壇」(2014年12月1日)所載。:やんま記

再びは生まれ来ぬ世か冬銀河 細見綾子

2016年11月15日 | 俳句
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細見綾子
再びは生まれ来ぬ世か冬銀河

生まれて見たらこの世。今ここに我在り、ただおろろろと生きている。時の流れは帰らざる大河のごとし。死への帰結を感知すれどそれが何たるやを知らぬ。星空を仰ぐ。冬の銀河に悠久の時の点滅を眺める。無なる事と悠久たることの狭間に我は思ひ我は悩やむ。明日知れぬたった一度の命を如何にとやせむ。:やんま記

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 万太郎

2016年11月14日 | 俳句
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久保田万太郎
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
寒くなって今日は湯豆腐でという事になった。思えば自分も今は晩年。清濁併せて随分様々な事を経験した。波乱万丈もこの歳にしてようやく収まった感あり。されどそこを貫いたものと言ったら食べる事の日常だったろうか。こうした命の時の果てに今眼前にある真っ白で淡泊で温かな湯豆腐に辿り着いたのだった。雄山閣「新版・俳句歳時記」(2001)所載。:やんま記

神の留守狛犬睨み利かせけり 佐藤忠

2016年11月13日 | 俳句
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佐藤 忠
神の留守狛犬睨み利かせけり
陰暦の十月になると各地の神様が出雲へ終結し当地を留守にする。留守番をしているのが門番の狛犬である。この際こそ我が本番のお勤めと一層睨みを利かせている。左右の狛犬は口の形が阿吽の相となっているがさてどちらの睨みが効くのやら。七五三ののどかさではないがどうも欠伸をし欠伸を噛締めている相に見えるのはわたしが皮肉れている為である。俳誌「春燈」(2016・1月号)所載。:やんま記

しばらくは予定もなくて小春かな シナモン

2016年11月12日 | 俳句
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シナモン
しばらくは予定もなくて小春かな
今年は7日が立冬であった。立冬を過ぎてから春のようなぽかぽか陽気になることがある。そんなある日仕事も遊びも人によっては病院通いも何も予定の無い日が訪れた。ぼんやりしているってこんなに安らかなものだったのか。時に煩わしい人間関係も離れ、病院の点滴からも逃れてせいせいとしている。人生の晩年で予定の無い日はきっと佳い日なのである。ネット「つぶやく堂俳句喫茶店」(2016・11・2)所載。:やんま記

長き夜や地図の中なるひとり旅 平野暢行

2016年11月11日 | 俳句
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平野暢行
長き夜や地図の中なるひとり旅

秋から冬へと夜が長くなってゆく。家の中で過ごす時間がたっぷりあってその時間を持て余すこともある。ふと旅に出たい衝動が襲い地図帳を広げる。紅葉前線はどのあたりまで進行したのだろう。見開いたページの知らない町の名に指が止まる。温泉マークがあって滝の名所、寺社の旧跡もある。おお直ぐ近くには友人の実家の町もある。あれやこれやと妄想が湧きこのひとり旅も果てしが無い。俳誌「百鳥」(2016・1号)所載。:やんま記

ふるさとのつきて離れぬ草じらみ 風生

2016年11月10日 | 俳句
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富安風生
ふるさとのつきて離れぬ草じらみ
コンクリートで固められた都会からふるさとへ帰って来た。草茂る野道を歩けばたちまち草じらみが衣服にくっついてくる。これがまたしつこいくらいに離れない。ま、これがふる里の象徴であるから致し方無いか。現状をどこか諦めた都会で望郷の夢となって脳裏を巡る。夢の中で悪童一行小鮒を釣り兎を追っている。角川「合本・俳句歳時記」(1974)所載。:やんま記

死んだとは思つてをらず亡妻忌 をがはまなぶ

2016年11月09日 | 俳句
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をがはまなぶ
死んだとは思つてをらず亡妻忌
無季と言うか当事者だけに意味がある季語。妻の季語を作ってあげるなんて素敵じゃないか。しかも日常何かにつけて妻とずっと行動を共にしている。哀れもここまでくると頬笑ましい。尤も私の場合先に行ってしまうのでこうはならない、落語の「駱駝の馬さん」じゃないが<死んだとは思つてをらずやんまの忌>となる。:朝日新聞『朝日俳壇』(2014):やんま記


とうぐわんと書きてゆくわいになりにけり 山本あかね

2016年11月08日 | 俳句
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山本あかね
とうぐわんと書きてゆくわいになりにけり
一読して当方が愉快になった。南瓜ではなく冬瓜。とうがんであるが句をたしなむ作者は紙に「とうぐわん」と書き、書いたとたんに愉快になった。まな板の上で馴染んだあのゴロンゴロンは「とうぐわん」なんだ!笑いとは理屈なしに可笑しいものである。愉快が「ゆくわい」の表記で誠に美味く仕上がった。さて今夜のレシピでとうぐわんにどんな顏をさせようか。:山本あかね『大手門』(2007):やんま記

ノルディックウオークの一団冬の寺 鈴木かこ

2016年11月07日 | 俳句
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鈴木かこ
ノルディックウオークの一団冬の寺

ノルディックウオークはスキーのステックを両手にして地上を歩くこと。小生もただの散歩に飽きてやっていたことがある。寒い寺の境内を一団となった連中がノルディックウオークでぐるぐると歩き回っている。吐く息が白いが厚着の下は汗をかいているのかも知れぬ。冬の老人スポーツには持って来いだと思う。一方で普通の杖代りに使っている方を見かけたが人様々である。俳誌「はるもにあ」(2016年1月号)所載。:やんま記

地玉子のぶつかけご飯今朝の冬 笠政人

2016年11月06日 | 俳句
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笠 政人
地玉子のぶつかけご飯今朝の冬

戦後間も無くの時期に鶏を飼っていた。朝の目覚ましが目的ではなく食料の確保の為である。毎朝鶏小屋に卵を取りに行くのが小生の仕事であった。雄鶏一匹雌鶏二匹、几帳面に産卵してくれた。他にはおかずなど無いのが常であったが、採り立ての玉子をご飯にぶっかけて掻き込む朝食の美味かったこと。今日は立冬、立派に冬となった。雄山閣「新版・俳句歳時記」(2001)所載。:やんま記

無花果の落ちたるを踏み滑りけり 望月喜久代

2016年11月05日 | 俳句
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望月喜久代
無花果の落ちたるを踏み滑りけり

秋は黄落の季節、落ちゆくものは葉ばかりではない。木の実や果実も大地に還る。木になるものの豊潤は我らが口へ至福をもたらす。しかし人に至福を与える前に熟して落ちるものも多々あり。いま無花果が散乱する中、秋の空青きに見とれていて思わず踏んでしまったものがある。つるりんこっと、ここで踏み留まれる貴女はまだまだ若い。朝日新聞「朝日俳壇」(2013年12月2日)所載。:やんま記

行く水におのが影追ふ蜻蛉かな 千代尼

2016年11月04日 | 俳句
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千代尼
行く水におのが影追ふ蜻蛉かな
蜻蛉は幼児時代ヤゴとして水に生き成虫は空を飛ぶ。当然陸の草木にも止まるのでこの世を自在に生き抜く存在である。武士の刀のつばに「勝ち虫」として刻まれたと言う。一方で蝶々の様な華やぎは感じられずどこか孤高である。今蜻蛉にとって母なる水が流れている。水に映る己のが影に母を重ね「母さん」と呟いたのかも知れぬ。作者は一子が死去した時の<蜻蛉つりけふはどこまで行ったやら>また<朝顔に釣瓶とられて貰い水>の一句で知られ通称は加賀の千代という。:彩図社「名俳句一〇〇〇」(2002)所載。:やんま記

裏返る猫をながめて冬ぬくし 斉藤浩美

2016年11月04日 | 俳句
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斉藤浩美
裏返る猫をながめて冬ぬくし
猫がごろんごろんと転がっている。何の屈託もない姿に心が安らぐ。雪の便りもちらほらとある中で、気温の寒暖が繰り返されて季節は次第に冬へと移ろってゆく。それにしてもぽかぽかと暖かい一日、猫に心を許してみれば何だかこちらも温くなってくる。十一月は旧暦の霜月、立派な冬ではある。雄山閣「新版・俳句歳時記」(2001)所載。:やんま記

初冬やシャベルの先の擦り切れて 山口誓子

2016年11月03日 | 俳句
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山口誓子
初冬やシャベルの先の擦り切れて
ようやく秋の農作業も終えて農具を納める時期となった。擦り切れたシャベルはよく働いた証である。先端がぼろぼろになっている。ぼろぼろになっているのは肉体もおなしこと。湯治宿にでも行って癒してくるか。かくして肉体の作業は一段落だが頭の中は既に来年の構想に余念がない。人生死ぬ迄労働、これもまた楽し。角川「合本・俳句歳時記」(1974)所載。:やんま記