ニッコウの旅のブログ
旅行の写真集
散歩の写真集

               
                    




「大阪」
先日(27日)の月曜日、大阪は御堂筋のイチョウ並木を撮影に行ってきました。
快晴の中、御堂筋の紅葉が見事でしたので、少しUPします。


















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「金剛輪寺」
金剛輪寺は、滋賀県愛知郡愛荘町にある天台宗の寺院で、本尊は聖観音、開基(創立者)は行基とさ、
西明寺、百済寺と共に湖東三山の1つに数えられています。
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、寺伝によれば奈良時代の僧・行基の開創とされ、
創建は天平9年(737年)または天平13年(741年)と伝えられています。
天正元年(1573年)織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けたが、
現存の本堂(国宝)、三重塔(重文)は寺僧の尽力で焼失をまぬがれた。当寺の本堂をはじめとする
中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、
焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もあります。



















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「白山平泉寺旧境内」
「苔寺」とも呼ばれる白山平泉寺、境内は一面に緑の絨毯が敷かれたように美
しく、白山国立公園に含まれ、参道は「日本の道100選」にも選ばれています。
人々に恵みの水をもたらす白山は、古くから信仰の対象でした。
その白山信仰の越前での拠点として、養老元年(717)に泰澄によって開かれた
と言われているのが白山平泉寺です。一帯は、最盛期の戦国時代には8000人も
の僧兵がいたと伝えられ当時の日本では最大規模の宗教都市となり繁栄します。
しかし、天正2年(1574)に越前一向一揆勢に攻められ、全山焼失しました。
以降、現代まで静かに時を重ね、平成になって発掘調査が始まると、数々の
石畳や石垣、坊院跡(僧侶の住居跡)が発見され、かつて賑わった巨大な中世
宗教都市の姿を、今の私たちに伝えてくれています。
「絨毯の様な美しい苔」



この平泉寺神社の苔は、
「梅雨のころの苔」が一番綺麗です。この神社での苔の種類は約200種類。
セン類と呼ばれる「こすぎ苔」「おおすぎ苔」「ひのき苔」などが多く又、
タイ類と呼ばれる「ぜに苔」「じゃ苔」などがあります。中でも、厚い「段通」
のように苔「おきな苔」。 他の地区でもあるのか知りませんが、ここからどの
ように移植しても、他では育たないといわれています。なんと言っても「自然の苔」
の広大さと美しさは、京都の苔寺の比ではありません。









「若宮八幡宮の大杉」
発掘調査と史跡整備が進められている「南谷三千六百坊」跡の一角に残る。
白山平泉寺の境内にかつてあった48の社のひとつで、古い絵図にも描かれて
いる「平泉寺7本杉」のひとつで、天正2年(1574)の全山焼失に耐えて残
ったと言われています。その佇まいは、いにしえにこの地が〝まほろば〟(素
晴らしい場所)だったことを静かに教えてくれているようです。




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「白山平泉寺」 後編
現在の平泉寺白山神社案内図、⑪番以降を基に説明と写真を掲載します。



⑪御手洗池 平清水
この池の中央にある岩は、影向岩と言います。泰澄大師がこの岩に向かって
お参りしていると、一人の女神が現れ、「今、私は権現である」と言われました。
これが神仏習合のはじまりです。また、「私の本当の姿は、白山の頂上にある。
早く登ってきなさい」と言われ、泰澄大師はその女神の導きにより白山の頂上
を極めることができたそうです。この池は昔、平清水と呼ばれており、平泉寺
の名前の由来はここからきています。



⑫二の鳥居
この鳥居は権現造といい、鳥居の中央に屋根がついている神仏習合の時代の
独特なものです。おそらく日本にはここにしかないと思われます。当時の鳥居
は一向一揆で消滅しましたが、1778年(安永6年)に再建されたものです。
白山三所大権現の大額は、中御門天皇の皇子天台座主公遵法親王がおかきに
なられたものです。  三所とは白山の御前峰、大汝、別山を言います。



⑬拝殿
現在の拝殿は江戸時代に作られた寄棟檜皮葺で、平安時代の風情をよく残して
います。1574年(天正2年)の一向一揆で全焼する前の拝殿は、46間(約83
メートル)あったと言われており、京都の三十三間堂より、大きな建物だった
そうです。左右に点在する礎石が当時の大きさを物語っています。
拝殿の中には十数面の絵馬があり福井藩主松平家の奉納品が多く、ほとんどが
勝山市の文化財に指定され、その中でも、1598年の絵馬がもっとも古いものと
されています。



⑭本社
この本社は1795年(寛政7年)に第12代福井藩主松平重富により再建された
ものです。総欅造で外観は白木造ですが、内部は美しく彩られています。また
この本社の龍の彫刻は、大変すばらしいものです。この本社の扉は33年に一度
しかあけられません。次に扉が開けられるのは、2025年(平成37年)です。



⑮別山社・大汝社
本殿に向かって右の社を別山社といい、天忍穂耳尊をお祀りしています。左の
社は大汝社といい、大己貴尊をお祀りしています。本殿とこの二つの社は白山
を構成している三つの山をあらわしています。



⑯楠木正成の供養塔
昔ここは三之宮の拝殿があったところです。楠木公の甥の恵秀律師が拝殿で行
をしていると正成が鎧甲の武者姿であらわれました。不思議に思い調べてみる
と、この日に正成が湊川で戦死していたことがわかりました。そこで石塔を
たてて、正成を供養したのです。1574年の一向一揆の時に拝殿は焼失し、石塔
も一部失われましたが、寛文8年に福井藩主松平光通がこれを補修し周囲に石
の柵をもうけました。1336年(延元元年)の作で歴史上非常に重要なものです。



⑰三宮・白山禅定道
三宮は1597年(慶長2年)に建立されました。現在の建物は明治22年に改築
されたものです。  祀られているのは、栲幡千々姫尊で安産の神様としての
信仰があつくお産が軽くなると言うのでお参りの帰りに社務所によって腹帯を
買って帰る方もいます。
また、ここからは泰澄大師が 開いたといわれる白山への登山道となっていて、
この道を白山禅定道と言い、平成8年11月には、歴史の道100選に選定されました。         



⑱発掘現場
1574年(天正2年)の一向一揆で平泉寺が焼失してから多くの建物 跡が土に
埋もれてしまいました。 しかし最近、家の建て替えや道路工事などで、大切
な遺産が詳しく調べられることなく破壊される様になりました。そこで勝山市
教育委員会では平成元年から平泉寺の発掘調査を行っています。平成9年には、
白山平泉旧境内としておおよそ200ヘクタールが国の史跡指定をうけています。
この調査によって当時の生活様式や屋敷の数などが解ってきました。
昔の平泉寺がいかに栄えていたかこの場所をご覧頂ければおわかりになると思
います。







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「白山平泉寺」
福井県勝山市の、国史跡「白山平泉寺」
現在の平泉寺白山神社案内図を基に、説明と写真を掲載します。
(今回は⑩番の旧玄成院庭園 迄とし、⑪番以降は次回に)



①下馬の大橋
菩提林の入り口に橋があります。この橋は下馬の大橋と呼ばれています。人々はここで
馬を下りて、川で汗をぬぐい、身を清め、ここから先は歩いてお参りしたそうです。
川でみそぎをしている姿が古い書物に描かれています。



②菩提林
旧参道には、菩提林とよばれる樹齢数百年の杉並木にかこまれ、約1㎞続きます。
杉の大木だけではなく、高山にしかないはずのブナの大木や珍しい沙羅やヤマナシの老木
も見られ、千年の歴史を感じさせる勇壮な林です。



③参道 ・旧参道(牛岩・馬岩)
菩提林の下のおおよそ700メートルの石畳の参道は、千年前の舗装道路です。ここに使わ
れている石は、おおよそ3千人の僧達が九頭竜川から手渡しで運んだものです。石の裏に
は法華経の文字が書かれ念仏を唱えながら石畳を造ったと言われています。当時はこの石
畳は位の高いお坊様か、来賓の方が通るだけで一般の参拝者は石畳より一段低いところを
通ったそうです。またこの石畳は、昭和61年8月に日本の道100に指定されています。
また、旧参道には、牛岩・馬岩が有り写真の、左が「牛岩」、右が「馬岩」で真夜中に願掛
けする「丑の刻参り」では、この岩が牛と馬になり道を遮ったという。恐れて戻れば願い
は叶わず、進めば成就したと伝えられています。
2つの岩は、広大な白山平泉寺にある結界のひとつ。いくつかの結界を抜けるごとに身が清
められていくとされ、境内へ続く石畳は九頭竜川の河原石を使い約1000年前に整備された
ものと考えられています。





④大門市
平安時代敦賀にいた藤原利仁は、関東の賊軍を成敗に行く途中、戦勝祈願のため平泉寺を
訪れました。祈願の結果、戦いに勝つことができた利仁は、平泉寺で一週間どんちゃん騒
ぎの戦勝祝いをしました。その時立った市が大門市のはじまりと言われています。現在は
四月の中旬から11月の上旬まで朝7時頃から、地元の人達が季節の山菜やとれたての野菜
などを売っています



⑤東尋坊ゆかりの地
みなさん東尋坊はよくご存じですね。福井県の有名な観光地です。その東尋坊のいわれの
地がこちらです。昔、平泉寺に東尋坊と言うお坊さんがいました。東尋坊はとても力が強
く乱暴者で他のお坊さんから嫌われていました。ある日、東尋坊を三国の海辺に誘い出し、
お酒を飲ませて崖から突き落としたそうです。すると、急に天気が悪くなり、嵐とともに
海は荒れ狂いはじめました。その崖が現在の東尋坊です。



⑥結神社
この中には二つの大きな石が祀られています。  この石は二つ同時に天から降って
きたものと伝えられていて縁結びの神様として拝む様になりました。
みなさんにもすてきなご縁がありますように。


⑦泰澄大師廟
平泉寺白山神社を開かれた泰澄大師のお墓です。室町時代に作られたもので、高さは1
メートル47センチあり、その時代のお墓としては、たいへん大きなものでした。
丹生郡越前町の大谷寺にも泰澄大師のお墓がありますが、泰澄の一番の大きな仕事が
この平泉寺を開かれたことであったので、こちらにもお墓が建てられました。



⑧顕海寺
1574年(天正2年)一向一揆により全山が焼失しました。難を逃れた賢聖院の住職顕海
和尚は9年後二人の弟子と共にもどられ平泉寺を再興されました。後に顕海は玄成院を弟子
の専海に譲り、自ら寺を建てます。その寺が顕海寺です。寺のご本尊は阿弥陀如来坐像。
一向一揆の時に境内の池に沈められていたものを9年後にひきあげて安置されたそうです。
同じく安置されている地蔵菩薩立像は鎌倉時代の作と言われています。二つは共に
福井県の文化財に指定されており平泉寺の最盛期の数少ない遺品です。



⑨精進坂
昔はこの坂より上には魚の持ち込みは禁止されていました。菩提をもとめて煩悩を断じ
身を清め心を慎むということで、精進坂と呼ばれています。またこの坂は昔は52段あり、
1段の高さが高くてのぼるのが大変でした。現在は84段となりのぼりやすくなっています。



⑩旧玄成院庭園
ここは現在、社務所になっていますが、一向一揆で平泉寺が焼失した時、難を逃れた顕海
和尚が9年後戻ってきて再興したのがこの玄成院です。ここのある庭園は国の名勝に指定
されていて、1530年頃室町幕府の管領細川高国によってつくられたと言われています。
自然石を利用した枯山水は見事なものです。お時間がございましたら、ぜひお立ち寄り
下さい。入園料は50円です。







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「白山平泉寺」
苔寺とも呼ばれる白山平泉寺、境内は一面に緑のじゅうたんが敷かれたように美しい苔に
覆われ、此の一帯は白山国立公園に含まれ参道は日本の道100選、にも選ばれています。
人々に恵みの水をもたらす白山は、古くから信仰の対象でした。その白山信仰の越前での
拠点として、養老元年(717)に泰澄によって開かれたと言われているのが白山平泉寺です。
一帯は、最盛期の戦国時代には8000人もの僧兵がいたと伝えられ、当時の日本では最大規
模の宗教都市となり繁栄します。




しかし、天正2年(1574)に越前一向一揆勢に攻められ、全山焼失しました。
以降、現代まで静かに時を重ね、平成になって発掘調査が始まると、数々の石畳や石垣、
坊院跡(僧侶の住居跡)が発見され、かつて賑わった巨大な中世宗教都市の姿を、今の私
たちに伝えてくれています。また、苔寺とも呼ばれる白山平泉寺で、境内は一面に緑の絨
毯が敷かれたように美しい苔に覆われ幽玄の世界でした。















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「ピョートル大帝夏の宮殿」
ペテルゴフの「夏の宮殿」は、ロシア・サンクトペテルブルクから西に約30km
離れたフィンランド湾南岸に位置し、サンクトペルブルグ中心部の、エミルタ
ージュ美術館近くの船着場から高速船で宮殿「下の庭園」の桟橋へ約35分。
庭園を進むと趣向を凝らした噴水に次々と出会い、庭園内の噴水の数は150を
超えます。噴水は15mほど高い宮殿の南側から、北の海側の低い庭園に下る水
位差を利用しています。噴水には大量の水が必要であることから、水路や貯水
池を経由して水を供給するシステムになっています。歴代ロシア皇室により拡
大・装飾され離宮として利用されていたペテルゴフだが、1917年のロシア革命
の後は博物館群として公開されています。

































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「サンクトペテルブルグの旅」
サンクトペテルブルグを旅した時の写真です。
ネバ川に係留されている「オーラら号」は、日露戦争でロシア海軍が破れ、奇跡的に対馬海峡
を脱出しペテルブルクに戻った戦艦です。 また、「エルミタージュ美術館」は、世界最大の
美術館の一つです。1764年、時の女帝エカテリーナ二世は、ベルリンから225点の絵を購入し、
ペテルブルクの王居である冬の宮殿に、付属の別館を造り、エルミタージュと名付けた。
(エルミタージュとは、『隠れ家』を意味するフランス語の名称)



















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