ニッコウの旅のブログ
旅行の写真集
散歩の写真集

               
                    




「有馬温泉」
神戸市北区にある六甲山地北側、標高350m~500m仁位置する温泉で、
関西の奥座敷とも言われ、日本三古泉の一つで江戸時代の温泉番付け
では当時の最高位である西大関に格付けされ、名実ともに日本を代表
する名泉の一つです。地質的には、活断層である有馬高槻構造線の
西端にあるため、地下深くまで岩盤が割れて、その割れ目を通って
地下深くから温泉水が噴出している構造です。泉質は、塩分と鉄分を
多く含み褐色を呈する含鉄塩化物泉、ラジウムを多く含む放射能泉、
炭酸を多く含む炭酸水素塩泉の3種類です。 それぞれ、湧出口では
透明だが、空気に触れると着色する含鉄塩化物泉は「金泉」と呼ばれ、
それ以外の透明な温泉は「銀泉」と呼ばれています。

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「新しいパソコン」
先日(6月23日)、新しいPCを購入し、2日掛かりで四苦八苦しながら、
Vistから、Windows 7にセッテイング完了しました。
Windows 7については不慣れな為、まごつきながらの勉強です。




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「テキスト作品集」
教室での、「テキスト作品集」です。
クラブを開いて、この様な作品を作成して楽しんでいます。
















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「東大寺」
聖武天皇は紫香楽宮の造営が開始された天平15年(743)10月15日に
「盧舎那大仏造立の詔」を発せられる。
東大寺の正式名称は、「金光明四天王護国之寺」と言い当初、紫香楽宮
において造仏工事が開始されるが山火事が頻発し地震の続発などにより、
平城京に還ることを決意、天平17年(745)8月大仏造顕の工事は金鍾
山寺の寺地で再開される事になった。聖武天皇は、人々が思いやりの心で
つながり、こども達の命が次世代に輝くことを真剣に考えられ、動物も
植物も共に栄える事を願い、さらに造像にあたっては、広く国民に「一枝
の草、ひとつかみの土」の助援をよびかけられた。つまり、大仏の造立は
皇室や政府の事業のみならず、国民に結縁を求め、助力によって完成しよう
とした点に、従来の官大寺建立とは明らかに異なり、大衆を知識(協力者)
として造立を果たそうとしたもので、この精神は各時代の再興や修理に
あたって、現代に至るまで常に相承されてきています。

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そもそも東大寺は国分寺として建立され、国家の安寧と国民の幸福を祈る
道場であったが、同時に仏教の教理を研究し、学僧を養成する役目もあって、
華厳をはじめ奈良時代の六宗(華厳・三論・倶舎・成実・法相・律)さらに
平安時代の天台・真言も加え、八宗兼学の学問寺となった。
南大門は、大仏殿にふさわしく、わが国最大の山門で阿形吽形の金剛力士
立像が安置されています。
























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「依水園」
依水園は奈良市にある池泉回遊式庭園(日本庭園)で国の名勝に
指定されています。前園と後園の二つに分かれており、それぞれ
が異なった景観を見せる。前園は寛文12年(1673年)に晒職人
であった清須美道清の作庭で、茶室「三秀亭」がシンボルです。
後園は明治時代実業家関藤次郎が築いた築山式の池泉回遊式庭園で、
作庭は裏千家十二世又妙斎宗室による。寧楽の都をモチーフとし、
若草山や東大寺南大門などを借景としています。海運業で財を成した
中村家が1939年に買い取り、前園と後園を合わせた形に整備した
1969年には、中村家所蔵の美術品を展示するため、寧楽美術館を
建設して一般公開しています。




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「吉城園」
東大寺南大門の西側には、吉城園、その隣には依水園が有ります。
吉城園(よしきえん)は、「興福寺古絵図」によると同寺の子院の
摩尼珠院(まにしゅいん)があったところとされています。明治に
民間の所有となり、大正8年(1919年)現在の建物と庭園が作られ
ました。企業の迎賓施設の時代を経て、昭和の終わりから奈良県が
所有し庭園を公開しています。園内は池の庭、苔の庭、茶花の庭
からなり、全面が杉苔におおわれた苔の庭には離れ茶室があります。




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「長谷寺」NO2
大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。
初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、
7,000株と言われる牡丹が満開になり当寺は古くから「花の御寺」
と称されている。また「枕草子」「源氏物語」「更級日記」など
多くの古典文学にも登場すし、中でも「源氏物語」にある玉鬘
(たまかずら)の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)
の杉は現在も境内に残っている。

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「長谷寺」
先日、奈良県桜井市の長谷寺へ行って来ました。
長谷寺は、奈良県桜井市にある真言宗豊山派総本山の寺で、山号を
豊号と号し、朱鳥元年(686年)道明上人が天武天皇の為に、「銅板
法華説相図」を初瀬山西の丘に安置した事に始まり、神亀四年(727年)
徳道上人が聖武天皇の勅願により御本尊十一面観音菩薩を東の岡に
お祀りになる。天正十六年(1588年)頃、専誉僧正がご入山されてより、
長谷寺は関係寺院三千ヶ寺を有する真言宗豊山派の総本山として、
又西国三十三所第八番札所のお寺で、四季を通じて「花のお寺」としても
有名です。




















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「橿原神宮」NO2
畝傍山の南東麓、約50万平方メートルもの広大な神域に建てられた
檜皮葺き(ひわだぶき=檜の樹皮を屋根に使ったもの)で素木(しらき)
造りの本殿と神楽殿が、玉砂利の参道と背景となる深い森の緑に調和
して、なんともいえない爽やかさと、厳かな雰囲気を生み出しています。
初代天皇であると伝えられる神武天皇が、橿原宮で天下を治めたという
「日本書紀」の記述に基づき、明治23年に建てられました。本殿、重要
文化財は、京都御所の賢所(かしこどころ)を移築したものです。
橿原市を代表する橿原神宮で、本殿と神楽殿を訪ねると日本の伝統的な
建築美に出会うことができます。



















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「橿原神宮」
先日、奈良県橿原市の畝傍山の東麓に所在する「橿原神宮」へ行って来ました。
橿原神宮は、御祭神・神武天皇が畝傍山の東南・橿原の地に宮を建てられ
即位の礼を行われた宮址に、明治23年に創建された,第一代の天皇であり
我が国建国の始祖、神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)
皇后が祀られている。 神武天皇は、皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
がこの国土に降られた日向国高千穂の宮におられたが、天下の政治を行う
べくはるばる東遷の途に立たれた。途中幾多の困難に遭われたが、ついに
大和の国を中心とした中つ国を平定され、畝傍(うねび)の橿原の宮に
おいて即位の礼をあげて、国の基をたてられた。
















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