ニッコウの旅のブログ
旅行の写真集
散歩の写真集

               
                    




「秋の嵐山」
天龍寺とトロッコ列車の旅。





















コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「ランチタイム」
パソコンクラブの人達と、ランチに行きました。
創作料理のお店で、色々な品数の料理が出ました。
勿論、ご飯と赤だし、デザートコーヒーが付いて、
¥2,000.のコースを頂きました。











コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「雲仙地獄」
温泉神社は、満明寺と同じ大宝元年の創立と言われ、四面宮として古事記に記され
ています。四面宮とは九州の四神のことで雲仙だけでなく、九州の守護神であった
と言われています。雲仙温泉のお湯は硫黄を含んだ強い酸性泉で草津温泉のお湯と
よく似ています。雲仙の古湯と新湯の間の白い土(温泉余土)におおわれた一帯が
雲仙地獄地帯です。
至る所から高温の温泉と噴気が激しく噴出し、強い硫黄臭が漂う中、湯けむりを
もうもうと立たせるさまは、恐ろしげな地獄の景色そのものと言えるでしょう。
雲仙地獄のエネルギー源は、橘湾の海底のマグマ溜りだと考えられています。
このマグマ溜りから発生した高温高圧のガスは、岩盤の裂目を通って上昇し、その
途中で化学変化を起こし、いったん高温熱水となります。その熱水の沸騰によって
生じたガスが、激しい噴気となって現れており、雲仙の温泉はこのガスとまわりの
山からの地下水が混ざり合って生成されたものです。





















コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「大江天主堂」
天文18年(1549年)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザヴィエルが鹿児島に上陸し、
わが国におけるキリスト教の伝道が始まりました。天草には永禄9年(1566年)に志岐
(苓北町)の領主がキリスト教の布教を許したことが始まりといわれています。しかし、
江戸幕府によって禁教令が出され、厳しい弾圧が続くなか、寛永14年(1637年)、天草・
島原の乱によって天草・島原のキリスト教信者はほぼ壊滅しました。ところが、乱の中心
地から離れた天草西海岸の信者は参加することができず、その後「潜伏キリシタン」とし
て密かに信仰を守り続けました。乱から170年後の文化2年(1805年)にキリシタン発覚
事件が起こり、大江・崎津・今富・高浜の4か村から約5,000人の人びとが「かくれキリ
シタン」として、幕府から厳しく取り調べられました。
明治維新後の明治6年(1873年)、ようやく信教の自由が認められたころ、布教の中心地
であった長崎の大浦天主堂の布教師西政吉が大江を訪れ、人びとに教えを説き、伝道者を
招いて次々と洗礼を授け、天草におけるキリスト教復活の道を切り開きました。









明治25年(1892年)、布教のため来日したフランス人神父ルドビゴ・F・ガルニエは、
私財を投じて白亜の天主堂(現 大江天主堂)を昭和8年(1933年)に建造しました。
また、長崎出身の鉄川与助(長崎の浦上天主堂を設計)によって設計されたこの天主堂は、
ロマネスク建築で、高い天井の聖堂となっており、礼拝堂には貴重なド・ロ神父の布教
活動のための版画5枚を見ることができます。
明治40年(1907年)には北原白秋、与謝野鉄幹、木下杢太郎、平野万里、吉井勇の
5人が天草西海岸を歩き、ガルニエ神父を訪問しました。このときの紀行文は『五足の靴』
としてまとめられています。ガルニエ神父は25歳で来日し、82歳で亡くなるまでの約
50年間を布教活動に努めついに祖国には帰らず天草に骨を埋めました。毎年クリスマス
頃になると、大江天主堂周辺はイルミネーションで飾られ、多くの観光客が独特の幻想
的な雰囲気を楽しむために訪れています。















コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「頂いた花」
お友達から頂いた花を生けてみました。
さて、何流でしょう?





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「六本木ヒルズ」
東京は、六本木ヒルズへ行って来ました。展望台からの眺めは、
曇りで東京タワーも霞がかかったようでした。毛利庭園では
花菖蒲が見事に咲いていました。





















コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「奈良・春日大社」NO2
藤原氏の隆盛と共に隆盛し、例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、
石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされ又藤原氏の氏神
氏寺の関係から興福寺との関係が深く、813年(弘仁4年)藤原冬嗣が
興福寺南円堂を建立した際、本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・
武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ春日大社と興福寺
は一体のものとなっていった。1871年(明治4年)に春日神社に改称し、
官幣大社に列した。1946年(昭和21年)12月に現在の春日大社に改称
された。春日造の本殿が四殿並んで建って、第一殿に武甕槌命、
第二殿に経津主命、第三殿に天児屋根命、第四殿に比売神が祀られている。
拝殿はなく一般の参拝者は幣殿の前にて参拝し、初穂料を納めて
特別拝観を申し込んだ場合は本殿前の中門から参拝することになります。





















コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「奈良・春日大社」NO1.
春日大社の主祭神は、武甕槌命 ( 藤原氏守護神)、 経津主命( 藤原氏守護神)、
天児屋根命 ( 藤原氏の祖神)、比売神 (天児屋根命の妻)、の4柱で、総称して
「春日神」と呼ばれ、藤原氏お氏神です。春日大社は、今からおよそ1,300年前、
奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である
鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのに始まり、
768年(神護景雲2年)藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社
に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営し、
お祀りしたのが始まりです。
「フルウィンドウで見る」をクリックし、右下のTVボタンを押してご覧ください」



















コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




「スペインの旅」
以前に旅した「スペイン11日間の旅」です。













コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




『富士屋ホテル』
箱根宮ノ下の富士屋ホテルは、明治11年(1878年)7月15日、日本で初めての
本格的なリゾートホテルとして開業し、外国人を対象としたホテルを目指し、
外国人客専用のホテルであった時代や、戦後の進駐軍による接収時代を経験し、
ヘレンケラー氏やチャーリー・チャップリン氏をはじめ、多くの著名人にも
愛されてきました。 宮ノ下大火や関東大震災など幾多の災害に見舞われた
こともありました。「富士屋ホテル」と名付けられました。
明治26年(1893年)、富士屋ホテルは「外国人客専用のホテル」となりました。
昭和29年(1954年)、米軍への施設貸与が6月末で終了し、7月6日をもって
一般営業を再開させました。この日から、富士屋ホテルの新たな一歩の幕開け
となりました。
洋風のお部屋で現在も人気のある「西洋館」も明治39年(1906年)に竣工し、
また昭和11年に「花御殿」が建設され、今も富士屋ホテルのシンボルとして
愛され続けています。





















コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする


« 前ページ 記事一覧画像一覧読者一覧フォトチャンネル一覧