ドーナツ畑の風に吹かれて

おかわり自由のコーヒーを飲みながら、廻る季節をながめて、おもったこと。

役に立たない自己分析続き。

2005-12-12 09:20:47 | 日記
 自分はSなのかMなのかということはけっこう頻繁に考える。周りでもけっこうな頻度で話題にのぼる。いろんな性格の分析に応用が利くからSとかMとかいう分類は便利だ。

 わたしがSなのかMなのか混迷して久しい今日この頃だけど、そもそもなんで自分がMだとおもったのかといえば、わたしは基本的に受け身でいるのが好きだから。
 だって、自分から相手に何か働きかけるのはおそろしい。それによって嫌われるかもしれないとおもったらもう何もできない。だったら、相手からなにかされる方がいい。相手の意図がわかるから。加虐より被虐。という基本スタンス。
 わたしは人間不信クイーンとおもう。人間関係において、自分から何かを働きかける場合は常に「大丈夫? 平気? 嫌いにならない?」と問い続けないことにはどうにも立ち行かない。たとえ相手が口で「へーきだよ」と言ってたとしても、それがちっとも信じられないから。
 言葉よりも行為の方がまだ信じられる、ような気がする。
 明け方に、そのようなことを考え出してややショボんだ。友達がやっと人間不信克服して信じられるようになった彼女にウソつかれた話のショックなどが、時間差で襲ってきた。嘘はおそろしい。嘘をつかれるのはとてもこわい。あああああ、嘘はこわい嘘はこわい嘘はこわい。
 なんで嘘をつく人がいるのだろう。わたしは絶対嘘つかないから、あなたもつかないでね、と周りに人に言いたいが、「うんわかった、約束ね」とその人に言われたところで結局わたしはその言葉を信じることができないんだろうな、とおもったり。わたしは、嘘はつかない。もちろん、場合によって言葉濁してごまかしたりだとか、なにかを誇張していったりだとか、細かい嘘はあるかもしれないけど、重大な嘘はつかない。自分がつかれて傷つく嘘はつかない。
 そんなこと考えてたら、一時期でも、心から彼女のことを信じることができた友人は、実は幸せなんじゃないか、と、ちょっとおもった。信じるなんて、わたしには難しすぎる。でも、信じられるのは心安らかなことだろうとおもう。信じられたら素敵だとおもう。信じたい。でもそうやって意識すればするほど、過敏になる。疑い深さは、度を越すと、人としてどうかということをいろいろやらかしがち。そんな衝動を抑えるのに難儀するのと同時に、人としてどうか、な自分が嫌になって悲しくなる。心の中がどろどろする。

 でも、こんなことはSとかMとか関係ないんだろうし。SとかMとかの定義があっているのかが不安になってきたけど、まあ真性じゃないことは確かだから別にいいや。広義の、ってことで考えたらわたしどっちなんだろうなぁ。本当は、細かいこといちいち気にせずにS的な言動してみたいのかもしれん。S的言動、とまでいかなくても、嫌われる心配せずに他愛もなくわがままとか言ったり聞き流されたりしたいな。それってSとかMとか関係あるのかな。すでにないな。
 脊椎反射的に疑うことにはもう疲れた。そんな神経使わずに過ごしたい。


 卒論、最後のまとめだけだというのになかなか終わらないなぁ。なぜだ。規定枚数80枚以上なのに、すでに95枚書いている。

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