ドーナツ畑の風に吹かれて

おかわり自由のコーヒーを飲みながら、廻る季節をながめて、おもったこと。

実習覚書

2005-06-21 00:08:17 | 日記
 ガクアジサイの真ん中はちゃんと咲くみたい。ちっちゃい変な花。なんか、おなかの空いたイソギンチャクみたいで妙に気持ち悪いのだが。それにしてもうちのアジサイちゃんは近所一の美人ちゃん。


 海洋堂の天然水フィギュアは25個買ってようようコンプリート。なんだかどうしようもない達成感。しばらく眺めて楽しもうとおもう。むふふとな。

 授業はやっぱりこわいのよ。40人もの意識を同じ方向にひっぱるなんて、相当体力使うことだよ。それでも古文は教え込んじゃえばいいだけの話なのだけど、現代文となると、ただ教えるだけじゃぜんぜん意味ないから、何かしらを感じ取ってほしいなぁ、というようなことを思うのだけど、わたしの力量じゃなかなかみんなを思った方向へ導けないのだよ。からまわるのだよ、むなしいのだよ。生徒たちの睡眠時間と化すのだよ、そしたらどうしたらいいかわからなくなってピントフリーズ現象さ。現代文の授業は、着地点を見つけないと、どうしようもない。でも、別にどこにも着地したくない自分がいるというか、結局現代文の授業というものが高校時代からきらいだったわたくしなわけで、そういうこと考え出すと無限ループ。
 みんなはちゃんと授業してるのになぁ。なんでわたしはこうなんにも出来ない子なのだろう、とおもって週末はずいぶん落ち込んでいた。かなしい。いらない子、だなぁ、と、おもった。死ねるもんなら死にたいとおもった。それは、すでに教育実習だけの問題ではないのであった。某氏は、わたしがいなくなっても、きっとすぐに立ち直るだろうと、言った。わたしは何事も、あとになってみないと自分がどの程度ダメージくらったのか量れないのだけれど、これは多分そうとうダメージくってたんだな、と最近になって思う。死にたくなる時決まってその根拠の一つになるフレーズ。いなくなってもすぐ立ち直るだろう。いなくなっても、いいんだ。
 不安になってしまった。わたしがここにいる根拠が不明瞭だ。なんでここにいるんだろ。

 同じ国語科のK氏はたぶんとてもある種の優秀さを備えていて、それは人生に全般的に役立つような何かで、うらやましいかぎり。そんな人が、同じ教科だからというだけの理由で、わたしとたくさんしゃべってくれるし、指導案の相談を持ちかけてくるし、こっちの相談にものってくれる。教科の話をするのはとても楽しい。そういう、根拠のある人間関係は、根拠に依存すればよいのでとても安心する。そういう意味でいえば、教育実習生という身分もとても好きだ。その身分さえもっていれば、同じ教育実習生同士、簡単に同調して簡単につながることができるし、簡単に会話をすることができる。身分とか根拠とか盾にしないと、もうまともに人と話なんてできやしない。

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