つぶやき、遊び・仕事・日常

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湯船にて

2022-10-05 06:47:47 | 日記
儒者・賢者なる方々の説明はやたらに難しいところがある。
対して、おいらたちが小学生の頃から、身近な存在だった農政家の二宮尊徳の言葉は割とわかりやすい。
それは、一仕事終えてゆったりと湯船につかっている時のような身近な喩で諭してくれる。

◆湯船の湯を考えてみよ
 「仁」というものは、人道の極致ではある、だが難しい説明は役に立たない。
 それは、湯船の湯のようなものなのだ。
 これを手で自分の方へかき寄せれば、湯はこっちの方へ来るようだけれでも、みんな向こうの方へ流れ帰ってしまう。
 これを向こうの方へ押してみれば、湯は向こうの方へ行くようだけれでも、やはりこっちの方へ流れて帰る。
 少し押せば少し帰り、強く押せば強く帰る。
 これが天理なのだ。

 人の体の組み立てを見るがよい。
 人間の手は、自分の方へ向いて自分に便利なようにもできているが、また向こうの方へも向いて、
 向こうにも押せるようになっている。
 これが人道の元なのだ。
 鳥獣の手はこれと違って、ただ自分方へ向いて自分の便利なようにしかできていない。
 だから、人として生まれたからには、他人のために押す道がある。
 それを、わが身の方に手を向けて自分のために取ることに一生懸命では人であって人でない。
 つまり、鳥獣と変わらないという事だ。
 なんと恥ずかしいことではないか。
 奪うに益なく、譲るに益ありということなのだ。
 この天理をよくよく噛み締めて、味わうがよい。

 →うんうん、これならおいらにもわかりそうです。