前略、いろいろやってます

多趣味なもので、好きなことを書きます。
日々の雑感がほとんど。たまに考古学。

でっかいボウリングのピン

2010-05-16 00:40:09 | 日記もの
津久井城の現説の帰りに、津久井の郷土資料室があったので立ち寄ってみた。建物は、もと小学校の分校でもあったのかな?校庭だった場所にメディカルセンターが建っちゃったという感じで。中に入ると、受け付けの女の人が一人、見学者が数名。しかし、展示は見るからにめちゃくちゃで、古い本を中心に、各家庭で見つかった古い民具や昔の教科書、古い校章バッジ、戦時中の切符類など、雑多な物がやたらと置かれていた・・・これは「展示」とは言えない。大まかに分類してあるだけなので、これは「陳列」だな。解説もろくにないし、とにかく系統立てて見せるという意識が皆無である。それでも興味のある民具をしばらく眺めていた。たぶん、それぞれの民具について、いつ頃使われたもので、どんな時にどのように使用したのかなど民具の基本となる調査なんか絶対にやっていないだろうなぁ。農家が納屋を解体する時に捨ててしまうような道具を持ち込んだだけとしか思えない。ただし、展示のやりようによっては、分かりやすく出来るんだけどなぁ。田舎の小さな町には博物館学の専門知識を持った人がいないので、こんな状態なのだろう。相模原市に合併したんだから、市でもう少し何とかしたら?と言いたくなるような状況でした。郷土資料室から駐車場に戻って、ふと道の向こうを見ると、巨大なボウリングのピンが・・・ボウリング場の看板になっていたヤツね。それにしてもそのピンは何故こんなところにあるのか?・・ボウリング場でもないし、まさか、一般家庭の人が趣味で庭先に置いているとも思えないし。不思議だったので写真に撮ってみた。それにしても、近くで見ると意外に巨大だね。

津久井城現説に行きました

2010-05-16 00:06:49 | 考古学もの
土曜日、来週のテスト作らなきゃーって思っていたけど、現説の誘惑に負けて津久井城(神奈川)へ。今日は外周走らないから、山登りで運動したことにしよう・・絶対外周より運動量はある!!(笑) しかし、この二日間で足が筋肉痛だ。
さて、どこなんだ?っていうと、相模原市北部。東名厚木インター降りて1時間ほど国道・県道で北上したところにある。家からは2時間弱で麓に着いた。史跡公園として整備中で、すでに麓には駐車場や公園管理の建物、ビジターセンターなどが完成している。そこから30分ほど山道を登って城本体へ向かう。途中までは園地として整備されているのでしっかりとした歩道が作られている。ようやく山道に入ったが、山頂までのルートはいくつか存在しているようだ。とりあえず時間に間に合うため、最短で上る男坂のコースを選択した・・当然、上りはキツい。7拍子の呼吸法を実行したら、ぐいぐい上って行けた。比高差は200mくらい。急な坂が続き、調査やるのに機材とかどうやって運んだのかなー?と思った。・・後で聞いてみたら、山の反対側にケーブルカーを設置して荷物はそれで上げているとのこと。
険しい山の山頂にはすでに人が多数いた。最近、山城は人気があるね。主催者側は予想を超える人数だったらしく、2班に分かれて説明するという。しかし、実際には説明する場所に入りきらなくて、途中から3班に分かれた。現場には石が多く、しかも河原石である。反対側の麓を流れる相模川の河原から運んだのだろうか? 中には数十キロはあると思われる大きな円礫まである。昔の人のパワーってどんだけだ!?って思った。考えてみれば、城攻めの時は鎧兜で上がっているのだから、それだけでも40キロくらいある。だから石だって担ぎ上げられるんだな。
石敷の建物跡?は最初見た時には、上に近世のお堂でも建っていたのかと思ったくらい。でも山頂では16世紀後半の遺物しか出ていないとのこと。高天神城にも石敷の遺構があったのでこれに類するモノか? 残りはこちらの方が抜群に良いと思う。廃城になってからもあまり人の手が加わっていない。多少は石が動いているが、たぶん木の根や破城の際に壊したのかも。
もう一カ所土塁の下に向かって石敷がある部分があったが、これについては現状で土塁の下に石敷が潜ってしまっていることになるので、近世に土塁が改変されているのかも。それにしても切り立った土塁だ・・崩れないのかな?
石の列が数カ所存在する。通路の端や水路などかな? 水路と思われる石の列が土塁の下に向かう。ここには木樋が通されていて、土塁で囲まれた区画の排水をしていた可能性が高い。韮山城には土塁の中を木樋が通っていたよ。もちろんここでは低湿地ではないため、木樋は腐って現在はなくなっているということで。神奈川県の人たち、そこんとこ、ちゃんと調べてね。

山は上りより下りがつらい。ただでさえ足が痛いのに膝に来る。それに足先に体重がかかってくるので、ひょう疽をかかえる足先にはかなりの負担。このため、途中からは横歩きになって急な坂を下った。麓について足先を見たら、つめの割れが拡大していて、剥がれてしまいそうになっていた。