東京駅の記念Suica申し込んだら、申込が殺到してひどい場合1年待ちだとか。抽選で3月中に請求が来た人は4月頃に手に入れられるらしいけど、もともと関東圏に住んでいない人なんて「どうせ使わねーだろ」とか思われて1年待ちだろうなぁ。東京へ行く時には使いたいんですけどね。なんて思っていたら、JR東日本からハガキが届いた。もしかして振り込みの連絡かな?と思ったら、単なる発行が遅れることへ詫び状だった。こんなのもうニュースやネットで周知されているのだから、今更って感じがします。こんな無駄なことしないで、乗客サービスの向上を考えて欲しいなと思う次第です。むしろ仮カードでも発行してくれる方が困らないんですけどね。具体的にいつになるのかということもないので、この詫び状は意味がないですね。
帰りの新幹線で夕食をとろうと考えて駅弁を買うことにした。幸い三島止まりのこだまがすぐある。これなら乗る人が少ないから夕方でも余裕で座れるだろう。ということで新幹線改札前の駅弁屋で牛肉弁当を買った。
こんな感じです。すき焼き風と焼肉風の二色の牛肉が乗っていました。
この日は北陸新幹線が開通したので、何かそれに関する弁当はないのかな?と思ったけど、ないですね。
がっかりしていたら、お土産に買ったシュガーバターの木の袋の中に富山の絵葉書が入っていました。ちょっと得した気分です。
こんな感じです。すき焼き風と焼肉風の二色の牛肉が乗っていました。
この日は北陸新幹線が開通したので、何かそれに関する弁当はないのかな?と思ったけど、ないですね。
がっかりしていたら、お土産に買ったシュガーバターの木の袋の中に富山の絵葉書が入っていました。ちょっと得した気分です。
大正大学へ行くために、板橋駅に降り立ちました。昔、埼京線沿線に住んでいたわりに板橋駅は降りたことなかったな。板橋は新撰組の近藤勇が処刑された刑場がある・・・と言っても板橋の刑場は宿場町の北側だったので、板橋駅からはかなり離れている。
しかし、板橋駅前には近藤勇と函館戦争で亡くなった土方歳三の墓、その横には生き残って北海道で余生を送った長倉新八の墓があった。供養墓なのかな。通りには長倉新八のイラストの垂れ幕がつけられていて、新撰組で売り出そうとしているのかなぁ?という感じでした。普通の庶民的な町ですけどね、板橋って。
しかし、板橋駅前には近藤勇と函館戦争で亡くなった土方歳三の墓、その横には生き残って北海道で余生を送った長倉新八の墓があった。供養墓なのかな。通りには長倉新八のイラストの垂れ幕がつけられていて、新撰組で売り出そうとしているのかなぁ?という感じでした。普通の庶民的な町ですけどね、板橋って。
日本百名城の1つ太田金山城。関東の城としては珍しい石垣の城です。行ってみてわかりましたが、山が岩山なので、掘るとどうしても石が発生してしまうのです。だから、発生した石を積むしかないと。
日の池。山頂近くにある水場です。こんなところに水が大量に湧いているのは驚きです。
山頂の本丸部分は新田義貞をまつる新田神社がありました。皇国史観の中で作られてしまったのでしょうか。
まだ皇居の遥拝所が残っていました。戦前の遺物かな。ここに立つと皇居の方向を向くことになるらしいのですが、皇居は当たり前ながらまったく見えません。
日の池。山頂近くにある水場です。こんなところに水が大量に湧いているのは驚きです。
山頂の本丸部分は新田義貞をまつる新田神社がありました。皇国史観の中で作られてしまったのでしょうか。
まだ皇居の遥拝所が残っていました。戦前の遺物かな。ここに立つと皇居の方向を向くことになるらしいのですが、皇居は当たり前ながらまったく見えません。
この日は、朝から新幹線で群馬の太田に向かった。朝6時台の新幹線は割と空いている。東京駅に着くと、隣のホームには人がめちゃくちゃいる。みんなカメラ持ってるぞ・・・と思って見ると、横に北陸新幹線がいた。かがやきだぁ。
そこから乗り換えをしようとしたら、「上野・東京ライン」のホームが出来ていた。
上野東京ラインはめちゃくちゃ早いです。とくに都内は止まる駅が少ないので、久喜駅まであっという間に着いてしまった感があります。ここで東武線に乗り換えて太田に着きました。
太田の金山は新田庄の中心地だったらしく、駅前には新田義貞の像がありました。個人的には太田はスバルの町って思いがあるんですけどね。ちなみにスバリストですから(笑)
だから、どちらかといえば中島飛行機の創業者の像が似つかわしいって(笑)でもこれは金山城の山頂にありました。
そこから乗り換えをしようとしたら、「上野・東京ライン」のホームが出来ていた。
上野東京ラインはめちゃくちゃ早いです。とくに都内は止まる駅が少ないので、久喜駅まであっという間に着いてしまった感があります。ここで東武線に乗り換えて太田に着きました。
太田の金山は新田庄の中心地だったらしく、駅前には新田義貞の像がありました。個人的には太田はスバルの町って思いがあるんですけどね。ちなみにスバリストですから(笑)
だから、どちらかといえば中島飛行機の創業者の像が似つかわしいって(笑)でもこれは金山城の山頂にありました。
こういうの珍しいのかな?あまり見たことないなぁと思います。しかも町章と市章が入り、握手しているデザイン。いざというときは協力しますよ的な意匠です。これは余裕がある長泉町がヤバくなりそうな三島市を助けてあげるって感じなのかな。
3月11日、国立大学前期試験合格発表もおわり、進路の決まった人たちはようやく受験勉強から解放される。前期で落ちた人はまだ後期試験の延長戦だけど。解放された人は、これから何やろう?って最大の問題らしい。自動車の免許取るにも時間がなく、アルバイトも単発ものしかないし、第一そんな単発ものはない。遊んだり、本を読んだりするしかないんだろうね。自分の時は何してたかなー・・・あれ、記憶ないや。たぶん遊んでたかな。でも受験勉強中もコンサート行ったり映画見に行ったりと、そこそこ遊んでいたので、あまり変わらなかったかも。
で、受験勉強で出来なかったことをやるんでしょうね。
お菓子作りしたかったんだろうなぁ、きっと。いろいろなチョコバージョンがありますね。これは時間がないと出来ないねー。
で、受験勉強で出来なかったことをやるんでしょうね。
お菓子作りしたかったんだろうなぁ、きっと。いろいろなチョコバージョンがありますね。これは時間がないと出来ないねー。
流しに水を流したら、細長い物体がある。あれ、イカソーメンなんて食べたかな?と思ったら、みるみるツノが出て来ました(笑)定規で測ると、最も伸びているときで7cmくらいありました。
流しの上で丸くなったので、定規を横においてみました。幅1cm、長さ5cmくらいになっています。
さで、どうしよう。1、塩をかけて退治 2,放置(笑) 3,どっかへ逃がす
1,塩をかけても、苦しがって暴れるのをしばらく見ることになるし、死んでも溶けてなくなるわけではない。死体は残り、何らかの処置をしなければならない。
2,放置すると、どこへ行くか分からない。ある日突然、食器に貼り付いているのを見てしまうのも嫌だ。
そうすると3しかないなー、どうやって持って行くか?そこで、竹の箸でつまんでみた。コリッとした感覚が伝わってきたが、暴れる様子はなかった。そのまま庭へ持って行って木の根方にそっと置いて来た。それにしても何食べたらあんなに大きくなるのかなーっていう大きさでした。
流しの上で丸くなったので、定規を横においてみました。幅1cm、長さ5cmくらいになっています。
さで、どうしよう。1、塩をかけて退治 2,放置(笑) 3,どっかへ逃がす
1,塩をかけても、苦しがって暴れるのをしばらく見ることになるし、死んでも溶けてなくなるわけではない。死体は残り、何らかの処置をしなければならない。
2,放置すると、どこへ行くか分からない。ある日突然、食器に貼り付いているのを見てしまうのも嫌だ。
そうすると3しかないなー、どうやって持って行くか?そこで、竹の箸でつまんでみた。コリッとした感覚が伝わってきたが、暴れる様子はなかった。そのまま庭へ持って行って木の根方にそっと置いて来た。それにしても何食べたらあんなに大きくなるのかなーっていう大きさでした。
「紅梅って本当にあるんですか?見たことないけど」と言われ、そういえば、よく見かけるのは白梅ばかりだなぁと思う。紅梅って少数派なのかな。尾形光琳は「紅梅白梅図屏風」で平等に扱っているけど。花札の梅は紅梅だしなぁ。ということで、紅梅を捜してみると、これが意外と少ない。沼津のSANには入口の両側に紅梅と白梅があったなぁ。しかし、熱海の梅園や修善寺の梅園は白ばかりだったなぁ。ということで車を走らせてみると、清水区樽の集落に立派な紅梅がありました。この大きさは見事です。
清水区の山間地は江戸時代「炭焼き村」と言われていた。中心となっていた真田本家は現在、東京へ引っ越してしまい、古い建物は撤去されて現在は畑となっている。井戸が残り、ここに人が住んでいたことが分かる。
峠には古い墓地と石塔があった。真田家は北佐久の武士団で、金の採掘と関連があるらしい。だから戦国時代にはすでにこの地区へ鉱山開発に来ていた人々だったようだ。石塔は古く、15~16世紀の頃のものではないかと思われる。
戦国の世は終わり、思うように金の採掘の出来なかったこの地域は、山村として炭焼きをして生活する地域に変わってしまったらしい。現在は燃料の炭も使用されなくなり、畑作の村となっている。
峠には古い墓地と石塔があった。真田家は北佐久の武士団で、金の採掘と関連があるらしい。だから戦国時代にはすでにこの地区へ鉱山開発に来ていた人々だったようだ。石塔は古く、15~16世紀の頃のものではないかと思われる。
戦国の世は終わり、思うように金の採掘の出来なかったこの地域は、山村として炭焼きをして生活する地域に変わってしまったらしい。現在は燃料の炭も使用されなくなり、畑作の村となっている。