前略、いろいろやってます

多趣味なもので、好きなことを書きます。
日々の雑感がほとんど。たまに考古学。

果実系

2012-07-29 10:28:28 | ドリンクもの
コンビニでは紙パックものに秀逸なものが登場している。
「なし水」ってそのまんまな感じの商品名だなぁと思いながら、購入。なるほど、これは梨だ。ドリンクなので果実のシャシリシャリ感はないけど、味は梨を食べているような、梨そのそのの味。今年はまだ梨を食べていなかったな、と思った。

マスカットは甘みが強く、やや人工的な味だった。薄味なのですっきりした感じはする。

民具たち

2012-07-29 10:12:41 | 日記もの
安土まで何をしに行ったかというと、昔の木の道具を見に行ったわけだけど、これはまだ未発表資料なので掲載はNG。
代わりに帰りに立ち寄った民具の資料館の資料を参考のために撮影。今は便利になって、こんな道具は使わなくなってしまったけれど、「いつか物質文明が崩壊した時には、先人の知恵が必要になって来る」。これが自分の歴史を学ぶ動機なので、少し前の道具たちに感心させられることが多い。人間は便利になると、工夫することや自分の手作業で何でもやることを忘れてしまうのかも知れない。
上の写真は背負子。薪を山にとりに行き、たくさん積んで歩いていると疲れて来る。背負子を背負ったまま座ってしまうと立ち上がるのに凄い力がいるので、背負子の下に手前の杖状のものをはさみ、立ったまま休憩する。山の合力もこんなことをしていたなぁと思う。
 
 
養蚕も昔は普通に農家の副業として行われていたこと。屋根裏を利用して蚕を育て、収入としていた。日本の近代化を支えた養蚕業・製糸業は今いずこ?

ちょっとした道具も手作り、修理を行う職人が村には存在していた。職人の技術を存続させて行くためには、普通教育ばかりでは難しいなと思う。
 
こういった味わいのある木の道具には感慨がある。鉄歯をつける鋤の形状は、古墳時代後期頃から基本形が変わっていない。そして樽のふたをスライドさせるという発想もすごい。

高速道路を西へ走る

2012-07-29 09:51:53 | 日記もの
7月7日、新東名・名神を走って安土へむかった。まずは下り新東名EXPASA静岡から。TAMIYAのTシャツがずらりと並んでいた。そしてガンダムショップ。プラモの街静岡を象徴する光景だ。お土産ショップにはいろいろな名菓が並ぶ。その中でお土産に選んだのは「8の字」。静岡では昔から庶民の味として有名なお菓子だ。値段もリーズナブルということで。
新東名は早くてわずか1時間ちょっとで浜松を通過!! 旧東名の3分の2くらいの時間かな。

早くも新東名は終了。静岡県を出て、旧東名に戻りました。で、赤塚PA。新東名のオシャレさに比べて、庶民臭さがあるのが旧東名のPA。でも、精一杯努力している感があって楽しい。提灯とかつるしてデコる・・こういうのも何か好きだなー。

赤塚PAで不思議なもの発見。「のろしどら」何ですか、これ?ということで、早速購入して食べてみた。普通のどら焼きにクリーム状のモノが入っている。どこが「のろし」なのか不思議だけど、甘くておいしかった。近くに狼煙を上げた山でもあるのかな??
 
次は名神高速道路。新東名に負けない!!とばかりに、EXPASA多賀というモノが出現していた。前から大きなSAだったけど、最近リニューアルしましたって感じでさらに大きくきれいになった感じがする。ここには高速道路建設の功労者の碑が片隅にあって、岩から顔が覗いているーっと、ちょっとビックリした。

お昼は郷土の人たちが食べるおかずを集めた「おばんざい」。滋賀県の味だー。ということで、比較的、あちこち立ち寄った割に、早く安土には着いてしまった。

こちらは翌日の上り線から。上下線が巨大な横断歩道でつながっていて、下り線からも上り線のSAに行くことができる。
 
お昼は近江牛カレーを食べた。近江のお茶も記念に買って飲んだ。

塩入りって

2012-07-20 23:46:38 | ドリンクもの
テレビの宣伝でやっていたので、スーパーで発見して即買い。夏のはちみつレモン・・塩入りなのだそうで。はちみつレモンに塩ってどうよ?って半信半疑で飲んでみた。思ったより塩は感じない。微妙にポカリスエットのような塩を感じる。でもこれ十分にはちみつレモンだよなって思う。あまり違和感はなかった。塩の量が絶妙なのかも。7月に入って暑くなって来たから、これ必要だよね。

高尾山古墳のその後

2012-07-20 23:24:42 | 考古学もの
沼津市片浜の文化財センターに展示室が作られていました。切り取られた主体部はこれ。予算の都合上、人形がノリパネになっちゃってます(笑)
 
問題になっている古墳の年代。土器は年代幅があります。古墳を作る前にも人が住んでいたので、古い土器も当然ある。そして古墳を作った時に備えられた土器、古墳に人を葬った時に備えた土器、後で子孫たちが先祖を祀ったときの儀式の土器など、古墳から出て来たと言っても色々な状況が考えられる。年代幅はあってもかなり古い古墳には違いないのだけど。
 
主体部からは、このような金属製品も出土している。謎多き古墳だ。

おまけ。銅鐸は大井川を越えたか?・・と言われるように、今のところ銅鐸の本体は大井川を越えていません。でも、一部分はこのようにペンダントに加工されて運ばれて来ます。大仁からも同じようなものが出ているし、類例もっとないのかな?

前々から気になっていた店

2012-07-20 23:16:35 | 日記もの
富士市のピュアエールというレストラン。場所は・・・説明出来ないって所にある。周りは住宅地。メインの道路にも面していない。根方街道からちょっと脇道に入ると、看板が出ている。最初は「何の店だろう?」って思った。こんなところだから美容院かな?という感じ。ネットで検索するとレストランらしい。建物は奥の方にあるので大変謎だらけだった。思い切って入ってみるしかない。ということで夕食を食べに入った。
フランス料理なのかなと思うと、パスタもメニューにある。値段はフランス料理店よりはリーズナブルだと思う。そのわりに味は本格的だと思う。何とも不思議な店だった。こんなに目立たないところにあるので、口コミとかで客は来るのかも知れない。店内には「法事などの会食も」とある。こんな農村地帯で法事で洋食はあるのかなぁ??と不思議だけど。
オーダーストップ直前に入ったので、単品になってしまったけど、次回はフルコース食べたいなぁと思った。

蛭が小島について

2012-07-20 22:39:24 | 歴史もの
大変、世の中に誤解されているのが、「頼朝は蛭が小島に流されていた」というモノ。これ、当時の記録のどこにも無い。では、頼朝はどこに?というと、記録では「伊豆に流罪」となっている。だから、伊豆のどこなんてわからないわけ。たぶん、まず三島にあったと考えられる伊豆国府に連行され、しかるべき処に連れて行かれるはず。単純に考えれば、在庁官人の誰かが引き受けると考えて、地元の有力者の下だろう。だから北条氏ってのもアリだけどね。でも伊東にも頼朝が流されていた伝説がある。それも伊東の姫との悲恋の伝説まであり、子どもも生まれたことになっている。さらに伝説をつなぎ合わせて行くと、頼朝は伊東氏が大番役で京都へ行っている間に・・・ということで、娘に手を出された伊東氏は怒って頼朝を殺そうとするが、頼朝は姫の兄によって命からがら伊東を脱出。怒りきれない伊東氏は娘の生んだ子どもを、家来に「川の淵に沈めて殺せ」と命令した。その家来が実行したとか、実行するのが忍びなく秘かに子どもを隠し、生き延びただとか。伝説はいろいろ。

そして、頼朝はどこへ行ったかというと、今度こそは北条へ預けられることになったらしい。だから、ずっと蛭が島にいたとか言うのは、ちょっと変。いくらなんでも自家用車の無いこの時代に、山を越えて伊東へ通うのは無理でしょう。で、後年、北条にいたのは、その後の動きを見ても確か。ただし、蛭が島という話は後世の話の中にしかなかった。本当は北条付近のどこなのかわからない。ただし、北条政子と結婚後は北条館のそばに屋敷を建てて住んでいたらしい。

 
現在、蛭が島にはこのようなオブジェがあって、頼朝がここにいたんだーと思われがちだけど、ここの発掘調査では平安時代は田んぼだったことが確認されている。ということは、ここには頼朝はいなかった。だいたい、現在の蛭が島は田んぼの真ん中だし、もっと山沿いだったんじゃないの?と思えるような場所。
何故、ここが「頼朝が住んでいた蛭が小島」として有名になっちゃったかというと、江戸時代末期の学者だった秋山富南が、頼朝がここら辺にいたんじゃないかと言って代官の江川氏に記念碑を建てることを提案。江川氏は支配地の一角に碑を建てることを許可した・・・というのが現在の「蛭が小島」である。さいしょにある石碑がそれ。これが実は江戸時代の遺物なのだと。

北条の頼朝には後日談があって、元妻の伊東の姫が頼朝を訪ねて来てしまう。凄い修羅場になりそうだけど、伊東の姫は北条政子とくっついたのを知り、身を引く。川の淵に身を投げて死んだという伝説もあるけど、江間四郎に再嫁したなんて話もある・・・江間四郎って義時じゃない!?という疑問もあるけど。伝説はいろいろありすぎて何がなんだか。

ちなみに、いろいろな本を見て行くと、蛭が小島を狩野川の中州のように書いている小説などが結構あった。狩野川はこの付近は昔からあまり流れを変えていないので、北条館の西を流れる。北条館は狩野川の水運と下田街道の交通を押さえるような位置に存在する。「蛭が小島」も本来は「ノビルがたくさん生えている島畑」という意味があるのだそうな。島畑って、低湿地の中にある島状の微高地のことね。
そういうことを知らない出版社が何を勘違いしているのか、頼朝の遺跡として蛭が小島写真を掲載してしまう。そろそろ、これやめた方がいいんじゃない?

相変わらず、蛭が小島は鎌倉信者の巡礼地となっているようだけど。ここ、頼朝とは関係ないからね。でも、頼朝と政子の像は絵になるから、ついつい訪れて写真撮っちゃうんだよねー。

木を切った韮山城跡

2012-07-20 22:29:36 | 考古学もの
山城跡整備の第一歩として、木を切るということがあります。なんせ、木がたくさん生えていると、そこが城だったなんて全くわからないし、どこが土塁なんだか、堀なんだか。ということで、バッサリやってくれました。

おかげでくっきりと城の形が見えるようになりました。でも、松の木のある山に想い出を持っている人たちには不評なのだとか。自然破壊になるのですって。小田原城でも揉めていたけど。こちらは下の学校の同窓会などが文句言っているらしい。でも、その学校の古い写真みると、もっと城の形がはっきり見えるのだけど。木は後から生えて来たのが一目瞭然。
よく城跡に桜を植えてあるけど、本来、城には桜など植えていない。第一、木があったらジャマだし、見通しが悪くなってかえって危険だよね。ということで、城整備をする人たちは、城本来の姿を追求して「木を切るべきだ」と主張する。
でも、しばらく揉めそうだね。個人的には巨大なマツボックリが手に入らなくなるのが残念かな。

城の下の公園は、花菖蒲が見頃です。奥には台風で崩落した跡が。ここにも台風の爪痕が残っていた。

清水町界隈

2012-07-14 12:01:38 | 歴史もの
6月24日、清水町界隈をうろうろしていました。清水町の八幡神社と言えば、頼朝と義経の対面石。
こんなものが本当であるわけないじゃん・・と思いつつも、写真を撮る。鎌倉信者にとってはここも聖地かも(笑)。案外知られていないけどね。近くにはボランティアガイドらしき人がいて、対面石よりも、周囲をめぐる土塁らしきモノに興味を示していることに不審な顔をしている。土塁が方形に廻っているので、ここって土豪屋敷の跡かもー・・ということはボランティアガイドにはわからないことだろう。それでもガイドの人は八幡神社前の寺には、武田の家臣甘利弾正の墓があると教えてくれた。どうも子孫が江戸時代にここら辺に移り住んで来て、先祖の供養をしたらしい。なかなか興味深いものがある。ウソっぽい対面石よりも、こういうモノを売り出した方が良いんじゃないの?清水町。

八幡神社の境内は新緑がきれいで、社殿前では30日に行われる大祓の茅の輪を作っていた。


清水町の東泉院の紫陽花たち。星形の紫陽花とか、大小さまざまな紫陽花が植えられていて、ここはもっと有名になっても良さそうな感じがする。

裏手には三島市との境界があって、たぶん河川改修によって川が埋め立てられ、道路になっている。この安全フェンスを取り払えば交通が便利になるんじゃないの?と思うのだけど、ここは昔からの国境。川は埋められたけど、二つの市町の境界には根強い溝が残っている・・というのを見せつけられているような気がする(笑)