大変、世の中に誤解されているのが、「頼朝は蛭が小島に流されていた」というモノ。これ、当時の記録のどこにも無い。では、頼朝はどこに?というと、記録では「伊豆に流罪」となっている。だから、伊豆のどこなんてわからないわけ。たぶん、まず三島にあったと考えられる伊豆国府に連行され、しかるべき処に連れて行かれるはず。単純に考えれば、在庁官人の誰かが引き受けると考えて、地元の有力者の下だろう。だから北条氏ってのもアリだけどね。でも伊東にも頼朝が流されていた伝説がある。それも伊東の姫との悲恋の伝説まであり、子どもも生まれたことになっている。さらに伝説をつなぎ合わせて行くと、頼朝は伊東氏が大番役で京都へ行っている間に・・・ということで、娘に手を出された伊東氏は怒って頼朝を殺そうとするが、頼朝は姫の兄によって命からがら伊東を脱出。怒りきれない伊東氏は娘の生んだ子どもを、家来に「川の淵に沈めて殺せ」と命令した。その家来が実行したとか、実行するのが忍びなく秘かに子どもを隠し、生き延びただとか。伝説はいろいろ。
そして、頼朝はどこへ行ったかというと、今度こそは北条へ預けられることになったらしい。だから、ずっと蛭が島にいたとか言うのは、ちょっと変。いくらなんでも自家用車の無いこの時代に、山を越えて伊東へ通うのは無理でしょう。で、後年、北条にいたのは、その後の動きを見ても確か。ただし、蛭が島という話は後世の話の中にしかなかった。本当は北条付近のどこなのかわからない。ただし、北条政子と結婚後は北条館のそばに屋敷を建てて住んでいたらしい。
現在、蛭が島にはこのようなオブジェがあって、頼朝がここにいたんだーと思われがちだけど、ここの発掘調査では平安時代は田んぼだったことが確認されている。ということは、ここには頼朝はいなかった。だいたい、現在の蛭が島は田んぼの真ん中だし、もっと山沿いだったんじゃないの?と思えるような場所。
何故、ここが「頼朝が住んでいた蛭が小島」として有名になっちゃったかというと、江戸時代末期の学者だった秋山富南が、頼朝がここら辺にいたんじゃないかと言って代官の江川氏に記念碑を建てることを提案。江川氏は支配地の一角に碑を建てることを許可した・・・というのが現在の「蛭が小島」である。さいしょにある石碑がそれ。これが実は江戸時代の遺物なのだと。
北条の頼朝には後日談があって、元妻の伊東の姫が頼朝を訪ねて来てしまう。凄い修羅場になりそうだけど、伊東の姫は北条政子とくっついたのを知り、身を引く。川の淵に身を投げて死んだという伝説もあるけど、江間四郎に再嫁したなんて話もある・・・江間四郎って義時じゃない!?という疑問もあるけど。伝説はいろいろありすぎて何がなんだか。
ちなみに、いろいろな本を見て行くと、蛭が小島を狩野川の中州のように書いている小説などが結構あった。狩野川はこの付近は昔からあまり流れを変えていないので、北条館の西を流れる。北条館は狩野川の水運と下田街道の交通を押さえるような位置に存在する。「蛭が小島」も本来は「ノビルがたくさん生えている島畑」という意味があるのだそうな。島畑って、低湿地の中にある島状の微高地のことね。
そういうことを知らない出版社が何を勘違いしているのか、頼朝の遺跡として蛭が小島写真を掲載してしまう。そろそろ、これやめた方がいいんじゃない?
相変わらず、蛭が小島は鎌倉信者の巡礼地となっているようだけど。ここ、頼朝とは関係ないからね。でも、頼朝と政子の像は絵になるから、ついつい訪れて写真撮っちゃうんだよねー。