アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

高倉健と福島泰蔵の生き方、其の3

2013年04月22日 | 近世歴史と映画

 

下士官への道

 

 「福甚」から利根川の土手を東に進むと、徳川家康の先祖の発祥地といわれる徳川村がある。

徳川村を通り越したところに、対岸の埼玉県に渡ることのできる刀水橋があった。川の中洲までしか掛っていない、

木造の粗末な橋であった。中洲からは、小石を踏み踏み進み、更に一本橋をいくつか渡らないと、

向う岸に着くことはできなかった。

 福島は刀水橋の袂で、見送りの人たちに別れを告げた。

十二月一日、装いを新たにした千葉県国府台の教導団に入団した。こうして福島泰蔵は

、陸軍軍人の道を歩みはじめたのである。二十一歳であった。

 

教導団生徒としての生活で、福島は、生来の頑固一徹、負けず嫌い、

凝り性、徹底性、周到性、計画性といったものを、周辺の人々に強く印象づけている。

 ばしめから陸士受験の足がかりを得ることを目指していた福島は、学術、実科とも、大いに励んだ。

また、そのときにそなえて、毎月支給される手当の大半は積立て、不要な出費はいっさい避けた。

食事も官給品だけにし、酒保への出入りもひかえた。そして閑さえあれば、兵学の勉強に取組んだ。

 成果は、入団わずか八か月であらわれている。

明治二十年夏、教官会議の評定で、成績優秀の判定が下り、士官候補生願いの提出許可が出たのである。

 願書は八月一日づけで、身上書その他を添付のうえ、東京鎮台司令官子爵三好重臣あてに提出し、

受理された。一年生ながら、異例の士官候補生特別受験を許可されたのだった。

 士官候拙生試験は東京鎮台で、九月に入ってから行われた。

教導団からの内申書を基にした面接による人物テストと、学科試験があった。学科試験は、漢学一本槍だった。

出題は二問で、毛筆により、漢文片カナ混りでなんでも書くようにいわれた。泰蔵は

「弔古墳期」と「駿馬説」という題で、カナ混りなしの全文漢文の答案を提出した。

帰隊後、忘れぬように全文をあらためて記録したものが残っている。

    

 

 

福島は、抜群の成績をおさめ、難関を一気に突破した。このこと以来、

の漢学に対する造詣は注目をあつめた。

 福島はしかし、ただちに士官候補生に任命されたわけではない。

士官候補生試験には合格したが、士官候補生に任命されるのは、

教導団で規定どおり二年間学び、卒業して工兵軍曹に任官してから、と申し渡されたのである。

 せっかく入団してすぐ試験に合格していながら、翌年受験のものとかわりないことになる。

形式張った決定に、泰蔵は内心、悲憤皆慨をおぼえた。しかしそのような気持ちを表に現わさず、

勉学に徹するように努めた。士官学校入学にそなえ、兵学に対する造詣を、

いっそう深めておこうと考えたのである。こうした泰蔵の姿勢が、まわりのものには、

磊落(度量が広く、小事にこだわらないこと)な男と映ったようだ。泰蔵もまた、

いつか、己を磊落男子と意識するようになり、漢詩の中で、

「上毛之磊落男児福島泰蔵」などと称している。

 この年の大晦日、教導団に大量の酒肴の支給があった。

陸軍省が直轄学校に特別配給したもので、それまではなかったことだった。

日本酒の大樽に鱈、鰻、するめ、豚肉などがふるまわれた。

 各兵舎とも、その夜は消灯時問が延長され、忘年会で娠わった。

 教導団のある国府台に辿なる小高い山の上に弘法寺という寺があった。

大晦日の鯨飲馬食の忘年会のあと、福島は弘法寺に初詣でをし大声放吟したと漢詩に詠じている。

これまた、明治二十年という時代に生きた、当時の陸軍に籍をおく若者の、

今も変わらぬ、若者の姿であ った。

 


高倉健と福島泰蔵の生き方、其の2

2013年04月22日 | 近世歴史と映画

泰蔵 平民から軍人へ

 平塚村に、福島とは同じ年代の、田部井某という、「福甚」の親類筋に

あたる男がいた。

田部井は明治十七年、陸軍の教導団に入団し、軍人への道を

あゆみはじめていた。

 教導団は修業年限二年の、当時の陸軍の下士官養成機関である。

明治六年、兵学寮より独立し、陸軍省の直轄となった。兵舎は東京日比谷の

練兵場内にあった。そして明治十八年十二月、千葉県の国府台

(現在の市川市)に兵舎を新築し、移転した。

(なお教聊団は、明治三十三年に廃止されている)。

 田部井は帰郷のたびに教導団の話をして、福島に入団をすすめた。

当時、陸軍将校になろうとしても、陸軍士官学校の受験そのものが、

まず華族か士族でないとむずかしかった。しかし、教導団は、

平民でも応募することができた。そして成績優秀な者には士官候補生への

道も拓かれており、更に陸軍士官学校を受験することもできると、

田部井はいった。

 福島の心は動いた。福島は平民で、農家の長男である。陸軍士官学校を

直接受験することはむずかしいが、教導団に入団しさえすれば、

成績次第で陸軍士官学校を受験することもできるというところが魅力だった。

 福島は教導団に応募の手続きをとった。願書の提出にあたっては、

世良田村の戸長北爪権平に添状を書いてもらった。当時、

農家の長男だと、兵役免除で願書は受理されない制度だったからである。

兵科は工兵科を希望した。

 採用試験は、日比谷練兵場内の兵舎で行われた。漢文の試験と、面接、

そして身体検査があった。

 もちろん、合格である。

 入団のため福島は、明治十九年十一月末の夜半に、

平塚村の生家をあとにした。

赤城おろしが吹き、すでに寒かったが、木綿の単衣の筒袖に、

桐生製の兵児帯、

素足に突掛け草履という粗末な身仕度だった。俗にいう冷や飯草履である。

下着も、上下とも木綿ものだった。入団すれば官給の衣類があるからといって、

福島は身仕度のことなどには頓着しなかった。しかし母のあさは、

風邪をひかぬようにと、

シャツだけは二枚重ねて着させた。

そして母のあさは、士官になるまでは家の敷居を跨いではならぬと諭した。

母のいましめをまもり、福島は以来、七年も、家に帰っていない。

 


高倉健と福島泰蔵の生き方、其の1

2013年04月21日 | 近世歴史と映画

泰蔵の苦学期

 

 宇田川淮一という、地理学を担当する教官がいた。この宇田川教官の教えを

受けるようになったことが、福島泰蔵の人生に大きな転機をもたらすことになった。

 地理学には、海陸や山川、気候、生物などを研究する自然地理学と、

人口、都市、産業、交通、政治、文化などを研究対象とする人文地理学とがある。

後年の福島の自然科学者、探険家、冒険家としての一面から考えると、

もともとその素質のあったものが、宇田川教官の講義を受けることによって、

はじめて目覚めたとみていいのでなかろうか。

 しかし地理学の講義も、週にI回きりである。福島は満足できなかった。

一事に凝りはじめると徹底的にやりとおさずにはいられない気性が、あらわれ始めた。

 地理学の教授本六冊を全部、貸してもらいたいと、福島は宇田川教官に申し出た。

暗誦できるようになりたいというのだ。子どものころから、本は十遍読むより、一遍、

写すこと。そのほうが覚えられると教えられてきた。筆写して覚え、暗誦できるようにするつもりだと、

福島は正直に訴えた。宇田川教官は快く応じてくれた。こうして福島は、群馬県師範学校生徒、

交信会会員であるとともに、宇田川教官個人の門弟でもあるという立場で、

地理学に取組むことになったのである。

 就学期間は、一年間だった。あと三か月しか残っていない。

その間に、望みを果たさなければならなかった。週に一度、前橋に通っているようでは、

望みはかなえられそうにない。福島は前橋に下宿することにした。そして毎日、師範学校に登校し、

空いている教室を転々としながら、筆写をつづけ、暗誦につとめた。

 三か月は、またたく問にたった。地理学教授本六冊の筆写は、見事に完遂することができたが、

暗誦のほうは、三か月ではとても無理であった。

 福島は明治十九年三月、群馬県師範学校の卒業試験に合格し、

新田郡太田の第一高等小学校(のちの太田小学校)に赴任した。正教員ではない。

勤務は正教員とかわりがなかったが、前同様に授業生たった。

 月給は四円である。生まれてはじめてもらう月給で、うち二円は毎月、家に送金した。

乏しい家計を助けなくては、と考えたからである。残りの二円で生活しなければならなかった。

当時、安い木賃宿でも、一か月、一円五十銭や二円では泊めてくれない。

もし泊めてくれるところがあったとしても、高等小学校の教員ともあろうものが、

木賃宿に寝起きするわけにはいかなかった。

ときの校長は成田剛蔵だった。

 福島は校長官舎の二階に、なかば食客のかたちで、住み込むことになった。

官舎といっても、二階には障子もないような家だった。畳を敷いてあるだけである。

 まだ寒く、風が吹くと、雨戸を閉めなければならなかった。雨戸を閉めておいて、

戸板の隙間からはいってくる光で、読書をする。鼠のようだと、校長の家の下女に冷笑された。

 夜も、火の気すらなかった。寒気は骨身に徹せる寒さだった。我慢できなくなり、

読書をやめて寝ようとするが、冬用の夜具など持っていない。校長に借りるのも無念だった。

薄い寝衣で横になると、軽く、ぞくぞくと寒い。寝つかれなかった。思い余って部屋の隅に

立ててあった屏風を、寝衣の土からかぶった。そうすると、なんとなく寒さをしのげて、

朝までまどろむことができたのである。

ところが、屏風をかぶって寝ているところを、下女に見られてしまったのである。あわてたが、

風が烈しくて、屏風が倒れ、寝ているうえにかぶさってきたが、それも知らずに熟睡していた、

といいのがれたという。

 このころのことを、福島は『小事実碌』に、「余ノ最モ其ノ地位下落セシハ月給四円ノ助教師タリシ時。」と書いている。

 第一高等小学校の教員は、わずか半年で辞任した。当時の小学校教員は待遇がきわめて

低いうえ、世間から軽視される風潮もあったことにもよるが、それよりも、

軍人への道に進もうと決意したからである。


高倉健と福島泰蔵の生い立ち、其のⅨ

2013年04月20日 | 近世歴史と映画

高倉健の母への想い 最終回

 

 花が植えられる場所のある家。

 そんな母に何かまとまったことがしたくて九州のとある海岸に家を建てたんです。

 海が見渡せる………。岩壁の上でね。

 道路からは、ちょっとおりることになるんですが……

 で……。

 母の友達と女同士しで行ったったときなんか、用心が悪いと怖がるといけないと思って、

犬が吠える声の出るセンサー付きの防犯の仕掛けをしたり。

 そこはとっても太陽がきれいなんです。

 テラスのガラス戸を閉めたまま見てもらえれば寒くないだろうと思って、ガラス戸を閉めても、

波の七日がいつも部屋の中でしているように、波の音のオーディオを取り付けたり、

海に向かってロッキングチェアを並べたり、広い台所つくったり、壁に花びん嵌め込んだり、

・ピノキヨ・の人形なんかも飾ったりして、そして管理してくださる方も見つけて。

 よーしと思って手をもんだら、そうしたら、こうですよ、

 「階段下りるならキツイからいかん」ですって、

 参りますよ……まったく。とうとう一回もいってくれないままでした。

 

そして………

 この母が本当に逝ったとき、自分だけ告別式に行かなかった。

『あ・うん』の大事なシーンを撮影してるときでした……

 

 葬式に出られなかったことって、この悲しみは深いんです。

 撮影の目処がついて、雨上がりの空港に降りると、

いつものように電気屋の門田ちゃんが出迎えてくれた。

 彼も自分の気持ちを察してくれて、長い無言の車内。

 実家へ行く途中、菩提樹の前で、車を停めてもらって、母のお墓に対面しました。

 母の前で、じーっとうずくまっているとね、子供(ガキ)のころのことが、

走馬灯のようにグルグル駆けめぐって……。

 

 

寒い風に吹かれて、遊んで帰ると膝や股が象の皮みたいになってて、それで、

風呂に入れられて、たわしでゴシゴシ洗ってくれたのが痛かった。

 そのときの母のオッパイがやわらかかったこととか、踵にあかぎれができると、

温めた火箸の先に、なにか、黒い薬をジューッ。付けて、割れ目に塗ってくれた。

 トイレで抱えてもらって、シートートー、とオシッコさせてくれたり、反抗して、

ジャーッと引っかけたり

 何か、そんなことばかりがが頭の中に渦巻いて。

 はいていたチノバンが、濡れて、それが冷たくて、ハッと気がついたんですね。

 いつの開にか、周りが乳白色の靄で、墓石の文字がおぼろになっていて、

供えた部忘れの花に、もう滴がついていて。

 濡れたズボンが、お寺さんを出て実家からホテルヘ、それでもまだ乾かなくて。

不忠議ですね。人の心は肉体を規制するんですね。

 肌色のバンドエイドで隠してる踵のあかぎれを見つけてくれる、

ただ一人の人はもういない。

  

お母さん。僕はあなたに衰められたくて、ただ、それだけで、

あなたがいやがってた背中に刺青(ホリモノ)を描(イ)れて、

返り血浴びて、さいはての『網走番外地』「幸福の黄色いハンカチ」の夕張炭鉱、

雪の「八甲山」北極、南極、アラスカ、アフリカまで三十数年駆け続けてこれました。

 別れって悲しいですね。

 いつも―。

 どんな別れでも―。

 

あなたに代わって、褒めてくれる人を誰か見つけなきやね。


高倉健と福島泰蔵の生い立ち、其のⅧ

2013年04月19日 | 近世歴史と映画

 

高倉健の母への想い 2

 

僕の映画は人生観で、出たみたいですね。

だけど妹たちがいやがってました。

やっぱり母親で見るから役で見ないんですよね。

独り言がだんだん多くなってきて、

恥ずかしくて連れていくのがいやだって。

「後ろから斬るとね。そんな卑怯なことして」とか言うんですって。

「つかまえてみろ」とか。「逃げなさい」とかね。そういうことチョコチョコと言うんで、

周りの人に恥ずかしくって、一緒に行くのがいやだって、だんだん言ってましたね。

 

毎年、写真送ってきてましたよ……離婚して…二、三年たってから、

毎年お見合い写真みたいなのに履歴書入れてね。

母の家系って教育者が多いんですね。 

        あの中学校の校長とか…母も先生でした。

一人になって可哀想……といつも書いてましたね。あなたが。不憫だって、

それはいつも書いてありましたね。

 僕が何かのロケヘ行ったりして、ワッと囲まれたとか、

ファンレターがなんとかって

ういうのいっさい見たことないですから。

想像できないんですね、

ぼくの生活が。

 女の人とチョロチョロ、なんかコソコソ遊ぶなんて全然想像もしてないんでね、

恥ずかしがり屋でできないと思ってた。

 帰っても誰もあなたを迎える人がいない。それを思うと不憫だって、

毎回書いてありましたよ。

 「お母さん。あなたが思っているより、僕ず―っともててるんだよ。

                                                       教えてやりたいよ本当に」

 「バカ」って言ってました。

 頑固で、優しくて、そして有難い母だったんです。

 自分が頑張って駆け続けてこれたのは、

あの母(ひと)に褒められたい一心だったと思います。

 

 


高倉健と福島泰蔵の生い立ち、其のⅦ

2013年04月18日 | 近世歴史と映画

高倉健の母への想い 1

 僕が荒れ性であかぎれが切れたり、いろいろするってのよく知ってるんですよ。

 任侠映画のポスターでね、入れ墨入れて、刀を持って、

後ろ向きで立っているやっでね、

全身の。肉絆創膏を踵に貼ってたんです、それを

 「アッ、あの子。まだあかぎれ切らして、絆創膏絆貼ぃとるばい」って

 見つけたのは、お袋だけでした。全身のポスター誰も気がつかない

「あんたがね―可哀想」

 

「そういえばね、あそこの幼稚園でプール造るっていうと、あなた寄付してあげなさい」

「お母さんね、俺、さっきから黙って聞いてるけどね、“もうそろそろそんなに何年も

やってんだから、あんたもいい役やらしてもらってね、そんな寒いところなんか行かないで

ああ、やっぱりお母さん有難いなって思ったんだけど、そしたら、幼稚園が何と

かだから、この前はお寺さんのあれが何とかだから、氏神様が何とかだから寄付しろとか

って。それ言っていることと、全然矛盾してるんじやないの……俺は仕事しないと金がで

きないんだよ。山の中だって、雪の山なんて、誰も行きたくないんだけど、そういうとこ

ろも行かなきや金にならないから行くんだから。で、“それは行かないようにしなさい〃

 

って、で、寄付は寄付でしなさい〃って、どっちなんだよ、言ってることが矛盾してる

じゃないか」

 

「・・・・・・・・・」

 

しばらくたってね……もう、四、五時間くらいたって、忘れてるころですよ。突然に、

「私もね、どっちの気持らも本当ですよ」

 って、突然。もう五時間くらいたって全然忘れているときに、ずーっと考えてたんですね。

「どっちの気持ちも本当だって、だから幼稚園に寄付もしてほしいんだけど、雪の中を這

い回るの、それもいやなんだ’」

 

「・・・・・・・・・」

 有難いですよね、母親って。

 

 

 


高倉健と福島泰蔵の生い立ち、其のⅥ

2013年04月17日 | 近世歴史と映画

高倉健の転換期

高倉健インタヴューズ より引用

《高倉健の話》

 俳優になろうと思ったのは、お金がほしかったからです。

恋をした人がいて、その人と暮らすためにお金が必要でした。

 大学を卒業して二年目。知人に新芸プロダクションという事務所を紹介してくださる方がいて、マネジャーになろうとしたんです。

(美空)ひばりちゃん、大川橋蔵さん、錦ちゃん(中村錦之介)がいたプロダクションでした。

事務所を紹介してくださる方とある喫茶店で会ったとき、

偶然当時、東映の専務だったマキノ光雄さんがいらした。その場で俳優と

してスカウトされました。

 (東映の)ニューフェイスに受かってすぐに大泉の撮影所にカメラテストを

受けに来たことをよく覚えています。メイク室で顔にドーランを塗られて、

ああ、役者になると化粧するんだなあと思ったら涙がぽろっと出ましたよ。

翌日から僕と今井健二君の二人は六本木にある俳優座の養成所に

委託研究生として頂けられました。

演技の勉強をすることになったんです。

教室に入って「小田と申します」と自己紹介したとたん、小田君、

いいからまずパントマイムをやってみなさい」……。

周囲がすべて壁で囲まれている場所で火災にあった男をパントマイムで表現してみろ、

ということなんです。

ところが、僕は教室に足を踏み入れたばかりだもの、やれ、と訪われてもねえ。

なかなかできないよね。素人だもの。

 「すみません。できません」と正直に言いました。他の人たちはみんな

煙を吸い込んで咳き込んだ真似したり、

ないはずの塀を叩く格好をしたり、みんな上手なんだよ。

 「小田くんは俳優を目指して稽古にきてるのに、できませんとは何事かね」と

僕だけ怒られました。評価はゼロです。自分には俳優という仕事は

向いていないんじゃないかとも思ったんですが、しかし、

他にできる仕事もないし、

金を稼ぐためにはとにかくやるしかない。それでIカ月の問、

稽古に通っていたら、

突然、主役をやれということになりました。そのまますぐに

撮影現場に入りましたから、僕の演技は誰かに教わったものじゃないんです。

俳優になって三年間くらいは演技のことなんて何もわかっていなかった。

三年目に内出仕夢監哲に出会い、『森と湖のまつり』(九八年)と

いう映画に出演しました。

衣装合わせのときに内田監督から「君の役はアイヌの運命を背負って立つ青年だ。

キャラクターのなかに悲劇的な匂いを出してほしい」と言われたんです。

しかし、僕には監督の言った「匂い」という言葉がまったく理解できなかった。

 「どうして映画に匂いが写るんだ。そんなわけないだろ」なんて腕組んで真剣に

考え込んでたくらいですから。しかし、あの映画に出てから、

僕も少しは自分の演技について考えることを学んだように思います。

 

 

 


高倉健と福島泰蔵の引用文献

2013年04月17日 | 近世歴史と映画

以下参考資料

参考文献

高倉健インタヴューズ        高倉 健/[述]   プレジデント社

証言日中映画人交流        劉 文兵/著     集英社

新編日本のフェミニズム 7      天野 正子/他編集委員 岩波書店

読書の時間によむ本 2小学5年生 西本 鶏介/編   ポプラ社

旅の途中で               高倉 健/著     新潮社

南極のペンギン            高倉 健/著      集英社

貧乏だけど贅沢           沢木 耕太郎/著  文芸春秋

あなたに褒められたくて        高倉健/著         林泉舎

その他、高倉 健、知人の口述を含む

 

司馬遼太郎/著    『坂の上の雲』           文芸春秋社

     〃                 『街道を行く』              週間朝日一九九五号

新田次郎/著      『八甲田山死の彷徨』     新潮社

高本 勉/著       『われ、八甲田より生還す』  サンケイ出版(現在は扶桑社)

      〃                『八甲田山より還って来た男』  文芸春秋社

北上 秋彦/著      『白兵に』                        講談社

茂木巌 /著       『柳匠屯戦記』  茂木穀   (私家版)

内闇官報局           『官報』     明治二十六年二月十目

衆議院・参議院『議会制度七壱年史』帝国議会史 上 昭和三十七年七月

日刊新聞   「朝日新聞」   朝日新聞社     (東京)

       〃     「車奥目報」   東奥目報礼   (青森)

       〃    「河北新報」   河北新報社   (仙台)

堀越 真一 「上州人 豪雪の八甲田山を征す」  (私家版)  

 

私の実母、実家兄嫁 福島家一族、旧姓福島きみの聞取りを含む

その他福島家所蔵、泰蔵手記や報告書など、

現在は 福岡県久留米市の陸上自衛隊幹部候補生学校に寄贈

「事前に申し込めば平日午前8時から午後4時45分までの間で一般も見学可能」


高倉健と福島泰蔵の生い立ち、其のⅥ

2013年04月16日 | 近世歴史と映画

 

 泰蔵の転機

その後泰蔵は平塚村の小学校の授業生となった。助教師のことで、

毎日、教壇に立つわけではない。ふだんは家業の農耕や蚕種の仕事に従事し、

その間、受持ちの時間だけ、学校に通ったのである。

 このころ、福島は司法省司法学校の入学試験を受けている。司法官への道を目指したのである。

 福島家に、このおりの福島の入学願書が保有されている。「司法省第七局」あてになっており、

「私儀今般御局正則八年制ニ入学志願ニ候間御試験ノ上御採用披成下度此政幸願候也」とある。

明治十七年七月二十七日の日付があり、戸長北爪権平の署名と実印がなされている。

各町村に戸長が置かれたのは明治十二年である。

 司法省第七局とは、司法省の司法学校のことで、官費で司法官を養成するのを職務とする部局であり、

 明治新政府は明治四年、欧米諸国にならって司法行政の事務を

取扱う中央官庁として司法省になり、

泰蔵はその後司法試験を目指したが、採用されなかった。

法学生徒の募集は四年に一度で、正則課と速成科があった。正則科は八年、

速成課は二年または三年が修業年限だった。福島の願書に、「御局正則八年生二入学志願二俣間」とあるから、

本科の正則科を志願したことがわかる。

結果は受験者総数は千五百余名で、試験は第一回、第二回と行われた。

第一回試験は数日にわたっており、これで百五十名にしぼられた。

そして第二回試験で、五十名採用された。

選抜された五十名に私費通学生十四名を加え、入学者は総計六十四名だった。

このうち中途退学者が十七名、在学中死亡者は一名で、三十八名が卒業している。

卒業生のなかに、奥村礼次郎(若槻礼次郎、のち総理大臣)、小川平吉(のち鉄道大臣)などの名がみえる。

 この司法管養成機関は、やがて文部省の所管に移され、明治十九年の帝国大学令の制定とともに

、帝国大学(現在の東京大学)に編入された。だから第四期生の卒業者たちは、履歴では「東大卒」となっている。

 ともあれ、福島は採用されなかった。のちに日清戦争のおり、

福島は陸軍歩兵少尉で高崎連隊(歩兵第十五連隊)の一員として参戦したが、

ともに出陣したもののなかに、赤沼金三郎という予備役陸軍少尉がいた。福島は親交を結んだが、

この赤沼が実は司法官試験の第四期生だった。長野県士族で、採用試験では官費生の一番で合格している。

赤沼の漢学の素養は、日清戦争に従軍したころは、福島と「兄タリ難グ弟タリ難シ」であった。

司法試験のころも同様に、優劣がつけにくかったとみていいだろう。それで一番で合格しているのだ。

福島の不合格は、士族平民のわけへだてとか、薩長閥優先の障害であった、

 

私の家系は苗字帯刀許されていたので祖父は明治二十六年に警視庁、巡査を拝命したが、

薩長閥優先があからさまで傲慢であったと本人より直接聞いている。」

 

なを、近代警察の父は川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日(1834年6月17日) - 明治12年(1879年)10月13日)は、幕末の薩摩藩士である。

 司法官への次の機会を待つとしたら、四年後ということになる。多感な青春時代の福島にとっては、

とても耐えられることではない。ほかの道を求めるよりほかなかった。

 つぎに福島が選んだのは、小学校教員への道である。授業生はしているが、正教員ではない。

 福島はあらためて、群馬県師範学校に入学した。師範学校の制度が整備され確立するのはこれ

よりもあと、明治十九年で、実施されたのは翌二十年四月からである。

福島が入学したのは、それ以前の制度のもので、あらゆる面でまだ充分にととのっているとはいえなかった。

そのうえ当時の群馬県はもめごとが多く、師範学校でも満足な授業ができない状態であった。

そこで本科生に限り、学校の都合で休講状態がつづいたときでも知識を交換する制度として、

交付会制度ができた。交付会規則によると、「本会の目的は、交信を主とし、

 学術に関する演説及び討論を講習し、以て知識を交換するにあり。」となっている。

現代の感覚でいうならば、弁論部のようなものだろうか。

 会費は月一銭で、会員の投票で選挙された七名の幹事が事務にあたり、通信教育を受け、

週に一回、登校し討論演説会に参加していた。当時、群馬県師範学校は前橋にあった。

平塚村から前橋まで、片道六里である。登校日に日帰りしようとすると、

早朝に出かけなければならなかった。

もちろん、歩いて行くのである。帰りは、深夜になった。ときに一泊することもあった。

 福島はこの会で教官の注目を集めた。討論会の議長は七名の幹事が交替で務めたが、

福島はしばしば議長に選ばれた。教官は登校日には全員、指導に参加するとともに、

討論会にも出席する規定であった。


                                        続く


高倉健と福島泰蔵の生い立ち、其のⅤ

2013年04月15日 | 近世歴史と映画

 泰蔵の転機

同じ寮生の蔑視の眼に耐え切れなくなり、福局は一年で啓沃校を退学し、一七歳で家に帰った。

 つづいて福島は、奥利根の山寺に籠る。独学で十分だから、万巻の書を読み、

精神を修養し、己の進む道を考えるようにと、父泰七に諭された。

 迦葉山竜華院弥勒寺という曹洞宗の寺で、当時、沼田から徒歩で何時間もかかる、

人里はなれた、当時は修行僧ぐらいしか行かぬ荒れ寺たった。群馬県の北はずれ、

利根郡上見知村(現在は沼田市)の、迦葉山頂上近くにあった。福島はこの山寺で

数え五歳から漢学の素読を自ら学んだ泰蔵には、仏教書、節書、哲学書を読み

理解することは容易い事であった。

 

現代の一七歳の高校生に、仏教書、節書、哲学書を理解できる人は皆無に等しい。

 

 泰蔵は、ほかに歴史、詩文をも含めた乱読の中から人間形成、知識教養のうえで、

大きなものを学び取っていった。この山寺篭りが、人生の契機となった。

電灯がまだなかった時代で、夜は燈油が尽きるまで読み耽ったという。

 福島はこの年の初夏から年明けの冬のさなかまで、半年あまりをこの山寺ですごし、

十八歳で多感な年に、山を後にした。