アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

柴又帝釈天と伊勢崎市境下武士の深い関係

2013年04月05日 | 名所旧跡

 

伊勢崎市の天増寺は江戸時代初期の伊勢崎領主、稲垣長茂の開基になり、

その代々の菩提寺であり、また中世の頃の那波一族の菩提をともらう寺で

あり伊勢崎市の名刹である。

日露戦争も日本の大勝利に終り、天増寺も本堂の新築の計画がもち上がってきた。

寺の住職も檀徒総代も連日の協議を重ねたが、初代伊勢崎領主の

菩提寺にふさわしい本堂を建立しなければならず、それにはまず棟梁を

探すのが第一の仕事である。

 ある時、伊勢崎町(現伊勢崎市)の有力者である檀徒が商用で

東京へいった時に葛飾の柴又帝釈天を参詣し、その山門(二大門)の

見事な建造物に感心して、その名工をたづねると、上州佐位郡下武士村の

棟梁石原島古の二番弟子の坂田留古であることが分かった。

なを、その後の名工留吉の生涯の面倒は全て、帝釈天で行ったのである。

         

 

下武士村は伊勢崎の隣村である。

 

おどろいたその人は、とんで帰り、早速寺の会議の席でその話をもち出したのである。

話はたちまち決まり、棟梁を石原島吉に、

副棟梁に当時の伊勢崎で名工といわれた、三輪勇吉をあてたのである。

 

 赤城山南下の名刹大畑寺の本堂を建造する。石原島吉にとっては、

宮大工の名利につきることであったであろう。 

 明治四十一年十一月三十日。聞ロ八間、奥行五真半の本堂の上棟式を立派にすませた。 

棟梁石原島吉は名工としての、その技了を近郷近在に響かせたのである。

 他村の高古を棟梁にして、地元の宮大工を副棟梁にあてたのをみてもわかるように

工匠島古はすでに完成されていたのである。 

後年本堂の修復の時に発見された棟板に、棟梁石原島吉義治の名があざやかに、うかびでていたそうである。

その棟板は昔のままに元の棟に上げられて現在の本堂を立派に守っているのである。