泰蔵の転機
その後泰蔵は平塚村の小学校の授業生となった。助教師のことで、
毎日、教壇に立つわけではない。ふだんは家業の農耕や蚕種の仕事に従事し、
その間、受持ちの時間だけ、学校に通ったのである。
このころ、福島は司法省司法学校の入学試験を受けている。司法官への道を目指したのである。
福島家に、このおりの福島の入学願書が保有されている。「司法省第七局」あてになっており、
「私儀今般御局正則八年制ニ入学志願ニ候間御試験ノ上御採用披成下度此政幸願候也」とある。
明治十七年七月二十七日の日付があり、戸長北爪権平の署名と実印がなされている。
各町村に戸長が置かれたのは明治十二年である。
司法省第七局とは、司法省の司法学校のことで、官費で司法官を養成するのを職務とする部局であり、
明治新政府は明治四年、欧米諸国にならって司法行政の事務を
取扱う中央官庁として司法省になり、
泰蔵はその後司法試験を目指したが、採用されなかった。
法学生徒の募集は四年に一度で、正則課と速成科があった。正則科は八年、
速成課は二年または三年が修業年限だった。福島の願書に、「御局正則八年生二入学志願二俣間」とあるから、
本科の正則科を志願したことがわかる。
結果は受験者総数は千五百余名で、試験は第一回、第二回と行われた。
第一回試験は数日にわたっており、これで百五十名にしぼられた。
そして第二回試験で、五十名採用された。
選抜された五十名に私費通学生十四名を加え、入学者は総計六十四名だった。
このうち中途退学者が十七名、在学中死亡者は一名で、三十八名が卒業している。
卒業生のなかに、奥村礼次郎(若槻礼次郎、のち総理大臣)、小川平吉(のち鉄道大臣)などの名がみえる。
この司法管養成機関は、やがて文部省の所管に移され、明治十九年の帝国大学令の制定とともに
、帝国大学(現在の東京大学)に編入された。だから第四期生の卒業者たちは、履歴では「東大卒」となっている。
ともあれ、福島は採用されなかった。のちに日清戦争のおり、
福島は陸軍歩兵少尉で高崎連隊(歩兵第十五連隊)の一員として参戦したが、
ともに出陣したもののなかに、赤沼金三郎という予備役陸軍少尉がいた。福島は親交を結んだが、
この赤沼が実は司法官試験の第四期生だった。長野県士族で、採用試験では官費生の一番で合格している。
赤沼の漢学の素養は、日清戦争に従軍したころは、福島と「兄タリ難グ弟タリ難シ」であった。
司法試験のころも同様に、優劣がつけにくかったとみていいだろう。それで一番で合格しているのだ。
福島の不合格は、士族平民のわけへだてとか、薩長閥優先の障害であった、
「私の家系は苗字帯刀許されていたので祖父は明治二十六年に警視庁、巡査を拝命したが、
薩長閥優先があからさまで傲慢であったと本人より直接聞いている。」
なを、近代警察の父は川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日(1834年6月17日) - 明治12年(1879年)10月13日)は、幕末の薩摩藩士である。
司法官への次の機会を待つとしたら、四年後ということになる。多感な青春時代の福島にとっては、
とても耐えられることではない。ほかの道を求めるよりほかなかった。
つぎに福島が選んだのは、小学校教員への道である。授業生はしているが、正教員ではない。
福島はあらためて、群馬県師範学校に入学した。師範学校の制度が整備され確立するのはこれ
よりもあと、明治十九年で、実施されたのは翌二十年四月からである。
福島が入学したのは、それ以前の制度のもので、あらゆる面でまだ充分にととのっているとはいえなかった。
そのうえ当時の群馬県はもめごとが多く、師範学校でも満足な授業ができない状態であった。
そこで本科生に限り、学校の都合で休講状態がつづいたときでも知識を交換する制度として、
交付会制度ができた。交付会規則によると、「本会の目的は、交信を主とし、
学術に関する演説及び討論を講習し、以て知識を交換するにあり。」となっている。
現代の感覚でいうならば、弁論部のようなものだろうか。
会費は月一銭で、会員の投票で選挙された七名の幹事が事務にあたり、通信教育を受け、
週に一回、登校し討論演説会に参加していた。当時、群馬県師範学校は前橋にあった。
平塚村から前橋まで、片道六里である。登校日に日帰りしようとすると、
早朝に出かけなければならなかった。
もちろん、歩いて行くのである。帰りは、深夜になった。ときに一泊することもあった。
福島はこの会で教官の注目を集めた。討論会の議長は七名の幹事が交替で務めたが、
福島はしばしば議長に選ばれた。教官は登校日には全員、指導に参加するとともに、
討論会にも出席する規定であった。
続く
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