アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

高倉健と福島泰蔵の生き方、其の1

2013年04月21日 | 近世歴史と映画

泰蔵の苦学期

 

 宇田川淮一という、地理学を担当する教官がいた。この宇田川教官の教えを

受けるようになったことが、福島泰蔵の人生に大きな転機をもたらすことになった。

 地理学には、海陸や山川、気候、生物などを研究する自然地理学と、

人口、都市、産業、交通、政治、文化などを研究対象とする人文地理学とがある。

後年の福島の自然科学者、探険家、冒険家としての一面から考えると、

もともとその素質のあったものが、宇田川教官の講義を受けることによって、

はじめて目覚めたとみていいのでなかろうか。

 しかし地理学の講義も、週にI回きりである。福島は満足できなかった。

一事に凝りはじめると徹底的にやりとおさずにはいられない気性が、あらわれ始めた。

 地理学の教授本六冊を全部、貸してもらいたいと、福島は宇田川教官に申し出た。

暗誦できるようになりたいというのだ。子どものころから、本は十遍読むより、一遍、

写すこと。そのほうが覚えられると教えられてきた。筆写して覚え、暗誦できるようにするつもりだと、

福島は正直に訴えた。宇田川教官は快く応じてくれた。こうして福島は、群馬県師範学校生徒、

交信会会員であるとともに、宇田川教官個人の門弟でもあるという立場で、

地理学に取組むことになったのである。

 就学期間は、一年間だった。あと三か月しか残っていない。

その間に、望みを果たさなければならなかった。週に一度、前橋に通っているようでは、

望みはかなえられそうにない。福島は前橋に下宿することにした。そして毎日、師範学校に登校し、

空いている教室を転々としながら、筆写をつづけ、暗誦につとめた。

 三か月は、またたく問にたった。地理学教授本六冊の筆写は、見事に完遂することができたが、

暗誦のほうは、三か月ではとても無理であった。

 福島は明治十九年三月、群馬県師範学校の卒業試験に合格し、

新田郡太田の第一高等小学校(のちの太田小学校)に赴任した。正教員ではない。

勤務は正教員とかわりがなかったが、前同様に授業生たった。

 月給は四円である。生まれてはじめてもらう月給で、うち二円は毎月、家に送金した。

乏しい家計を助けなくては、と考えたからである。残りの二円で生活しなければならなかった。

当時、安い木賃宿でも、一か月、一円五十銭や二円では泊めてくれない。

もし泊めてくれるところがあったとしても、高等小学校の教員ともあろうものが、

木賃宿に寝起きするわけにはいかなかった。

ときの校長は成田剛蔵だった。

 福島は校長官舎の二階に、なかば食客のかたちで、住み込むことになった。

官舎といっても、二階には障子もないような家だった。畳を敷いてあるだけである。

 まだ寒く、風が吹くと、雨戸を閉めなければならなかった。雨戸を閉めておいて、

戸板の隙間からはいってくる光で、読書をする。鼠のようだと、校長の家の下女に冷笑された。

 夜も、火の気すらなかった。寒気は骨身に徹せる寒さだった。我慢できなくなり、

読書をやめて寝ようとするが、冬用の夜具など持っていない。校長に借りるのも無念だった。

薄い寝衣で横になると、軽く、ぞくぞくと寒い。寝つかれなかった。思い余って部屋の隅に

立ててあった屏風を、寝衣の土からかぶった。そうすると、なんとなく寒さをしのげて、

朝までまどろむことができたのである。

ところが、屏風をかぶって寝ているところを、下女に見られてしまったのである。あわてたが、

風が烈しくて、屏風が倒れ、寝ているうえにかぶさってきたが、それも知らずに熟睡していた、

といいのがれたという。

 このころのことを、福島は『小事実碌』に、「余ノ最モ其ノ地位下落セシハ月給四円ノ助教師タリシ時。」と書いている。

 第一高等小学校の教員は、わずか半年で辞任した。当時の小学校教員は待遇がきわめて

低いうえ、世間から軽視される風潮もあったことにもよるが、それよりも、

軍人への道に進もうと決意したからである。