アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

高倉健と福島泰蔵の生き方、其の6

2013年04月26日 | 近世歴史と映画

 

母の死

 

陸軍士官学校を卒業した翌日、福島泰蔵は高崎連隊(歩兵第十五連隊)に

帰任した。見習士官である。階級は問もなく、陸軍曹長に昇進した。

 同連隊将校団の会議で、福島が満場一致で少尉に推挙されることが決定し、

直ちに上申の手続きがとられたのは、翌明治二十五年二月である。

そして同年三月、福島は随車歩兵少尉に任官した。第四中隊の所属だった。

 彼は二月六日の将校団会議での、少尉推挙可決の翌日、

父にあてて、近々陸軍少尉を拝命すること、その後に故郷を訪れたいと

手紙を出した。やがて父、泰七からの返事が届いた。

それを読んで彼は茫然自失した。

 

『児ョ多年病痔ニアリシ母ハ二月七日に没ス病体ノ事ュヱ眠ルガ如ク逝ク。

没スルノ前遺言スラク、皇威ハ今、志ヲ得ルト得ザルノ場合、且ツ国ノ為二使フ、

若シ老母ノ身上ヲ顧慮シテ睡践セバ吾が子ニアラズ、仮令此身死ストモ皇威が

志ヲ得ザル間ハ之ヲ報知スルコト勿レ。ト児夫レ老母ノ遺言ヲ守レ。

敢テ或ハ愁傷シ、敢テ戌ハ驚愕スル勿レ。勇ナカジセバ天下何事モナラズ。』

 

葬儀はすでにすませた、いまはおまえにとって大事なときなので、

少尉に任官するまで帰郷してはならない、という内容だった。

 陸軍歩兵少尉に任官するとすぐ、福島はふるさと平塚村に帰郷した。

高崎駅から汽車に乗り、深谷駅で降りた。深谷駅では、

馬一頭が待ち受けていた。

父泰三が村内から借り受け、深谷駅まで曳かせてきてあったのである。

利根川べりでは、親戚のもの何人かが出迎えにきていた。

七年ぶりの帰郷だった。まずは墓前にぬかずいたのはいうまでもない。

 七年前、平塚村を出立してからは、母との約束通り士官に任官するまでは

帰郷することなく、刻苦勉励して今日、晴れて難関をくぐり得たが、

その母はもう亡い。さすがの福島も数日泣きあかしたという。

泰蔵はこのとき、二十七歳であった。

 七年も経てば、故郷の様子もかなり変っている。都会ならばともかく、

士族でもなく少尉にまでなった人物は、さすがにこの新田郡にも珍しく、

弟甚八に案内してもらい、福島は世話になった人たちの家を挨拶してまわった。

恩師渋沢高岸問のところでは、懐旧談に花を咲かせた。頭に白羽帽を冠り、

金装の軍礼服に身を固めた彼の姿をみて、近隣の女性たちは亡き母、

あさを想って涙したと伝えられている。

 

正に書きなぐり感情を露にして書いた、檄文であり泰蔵の心が、動揺している。

いくら五歳から漢学を学んだ、陸軍少尉とて人間である、しかし其れだからこそ

こんな時でもあっても、この様な表現が可能なのだ、

 

 

 

心情を露し

幾度となく読んでも、涙する私である。