アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

高倉健と福島泰蔵の生い立ち、其のⅣ

2013年04月14日 | 近世歴史と映画

  泰蔵の苦学時代 

当時の小学校の修業年限は、下等四年、上等四年で、下等四年間の就学が義務教育とされた。

 平塚小学校で福島が学んだのは、明治七年春から十一年春までである。成績は抜群であった。

すでに漢学の素読なども身につけていたこともあったので、

学業ではひときわ目立って頭角をあらわし、

下等小学校卒業のおりには、群馬県令揖取泰彦(かとりもとひこ)から特別院等賞を

受け、村民からは神童とたたえられた。

 このころ、「福甚」は廻船運送業がすでに傾き、農耕で生計をたてるようになり、

養蚕の種屋にも手をつけはじめていた。福島は下等小学校を卒業すると、

長男として、農耕、そして蚕種屋としての家業を手伝った。福島の下には、

四人の妹がいた。そしてさらに、福島とは十五歳も年のちがう弟甚八が生まれた。

明治十四年のことである。

 「貧乏は、決して恥ではない。世間様には一応の御奉仕をしてきたのだから、

なにもくよくよせんでもよい」

 これが奉七の口癖だった。

 そして常日頃から、「奉戴は学問をつづけよ」といっていた。父にいわれるまでもなく、

泰蔵は学問の道をつづけたかった。しかし没落した家のことを思うと

それはかなわぬ夢であった。

しかし、諦めきれなかった。長子として農耕と蚕種業に精を出すか、

望みどおり学問の途にすすむか、進路を定めかね、苦悩の日がつづいた。

 そのような泰蔵に、母は、いつも口癖のようにいっていた。

 「いつまでも、あると思うな、親と金、無いと思うな、運と災難」

 母は丙午うまれで、気丈な女だった。幕末のころ、筑波山に尊王攘夷の兵を

挙げた藤田小四郎などの水戸天狗党は、敗れたのち、京にのぼろうとしたが、

途中、越前(いまの福井県の東部)で捕えられ、処刑された。このとき、

かれらは平塚を通り、利根川を渡っている。各地で軍用金や糧食を微発したり、

狼籍を働いた無法集団だった。

 母は屋敷の内外を固めて警戒する者たちの先頭に立ち、夜半に通過する天狗党に

「福甚」の門前で堂々と応対して、

事なきを得たという。まだ泰七を婿に迎える前の、あさ、十八歳のときで、

泰蔵はこの上州女性特有母の気性をいちばん受けついでいる。

泰蔵は一途に、軍人を目指したわけではない。明治という新しい時代がはじまったばかりの、

混沌としたなかで、前途を手さぐりつづけたのである。

 弟甚八が生まれた次の年、福島は、平塚打と利根川をはさんだ埼玉県下忍村

(現在の行田市)あった「啓沃校」という私塾に入学した。

一緒に入学した隣村尾島町阿久津の友人白石綿之肋の勧めと、

ともかくこれからの世の中は学問を身につけていなくてはという両親の

強い励ましによってである。

福島も青雲の志を捨てがたかったのはいうまでもない。

白石はのちに群馬県議会議員をつとめた男である。

 啓沃校の塾頭は、もと武州忍藩の儒者渡辺同舟で、変則中学校の扱いを受けていた。

今風にいうなら、私立中学校である。旧高禄士族や富豪富農の子弟が多く、

全寮制であった。月謝はともかく、寮費まで払う余裕は、このころの「福甚」にはなかった。

 泰蔵は塾頭に申し出て、学僕をつとめ、寮費を免除してもらうことにした。

寮の掃除や塾頭の家の風昌焚きなど、雑用をするのが役目であった。

両親に相談せず、福島一人ではからった。かつて繁栄を誇った「福西」の跡取息子が、

学問のためとはいえ、学僕をつとめることなど、両親がこのことを知れば、

その場で連れ戻されることは、火を見るより明らかであったからだ。

時代は異なるが、裕福で名家の生まれ育った、高倉健とは全く異なる点であるが、

相通じる点が多くみられる。

 

 

 

 


会津若松鶴ヶ城は、桜の蕾みはかたかった

2013年04月14日 | 名所旧跡

竹馬の友と30年ぶりに、会津若松鶴ヶ城へ興味が有ったのは

鶴ヶ城公園内にある、千利休の子・少庵が建てたと言われる茶室です。

戊辰戦争後、城下に移築され保存されていましたが、平成2年に元の場所である鶴ヶ城内へ移築復元されたので、

 

 

平成23年春には幕末時代の瓦(赤瓦)なったのも、興味が有りました。

なを、八重の桜の詳細な史実に基くブログは、迷道院高崎さんが

掲載しておりますので、参考になると思います。

http://inkyo.gunmablog.net/e287024.html