アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

高倉健と福島泰蔵の生き方、其の3

2013年04月22日 | 近世歴史と映画

 

下士官への道

 

 「福甚」から利根川の土手を東に進むと、徳川家康の先祖の発祥地といわれる徳川村がある。

徳川村を通り越したところに、対岸の埼玉県に渡ることのできる刀水橋があった。川の中洲までしか掛っていない、

木造の粗末な橋であった。中洲からは、小石を踏み踏み進み、更に一本橋をいくつか渡らないと、

向う岸に着くことはできなかった。

 福島は刀水橋の袂で、見送りの人たちに別れを告げた。

十二月一日、装いを新たにした千葉県国府台の教導団に入団した。こうして福島泰蔵は

、陸軍軍人の道を歩みはじめたのである。二十一歳であった。

 

教導団生徒としての生活で、福島は、生来の頑固一徹、負けず嫌い、

凝り性、徹底性、周到性、計画性といったものを、周辺の人々に強く印象づけている。

 ばしめから陸士受験の足がかりを得ることを目指していた福島は、学術、実科とも、大いに励んだ。

また、そのときにそなえて、毎月支給される手当の大半は積立て、不要な出費はいっさい避けた。

食事も官給品だけにし、酒保への出入りもひかえた。そして閑さえあれば、兵学の勉強に取組んだ。

 成果は、入団わずか八か月であらわれている。

明治二十年夏、教官会議の評定で、成績優秀の判定が下り、士官候補生願いの提出許可が出たのである。

 願書は八月一日づけで、身上書その他を添付のうえ、東京鎮台司令官子爵三好重臣あてに提出し、

受理された。一年生ながら、異例の士官候補生特別受験を許可されたのだった。

 士官候拙生試験は東京鎮台で、九月に入ってから行われた。

教導団からの内申書を基にした面接による人物テストと、学科試験があった。学科試験は、漢学一本槍だった。

出題は二問で、毛筆により、漢文片カナ混りでなんでも書くようにいわれた。泰蔵は

「弔古墳期」と「駿馬説」という題で、カナ混りなしの全文漢文の答案を提出した。

帰隊後、忘れぬように全文をあらためて記録したものが残っている。

    

 

 

福島は、抜群の成績をおさめ、難関を一気に突破した。このこと以来、

の漢学に対する造詣は注目をあつめた。

 福島はしかし、ただちに士官候補生に任命されたわけではない。

士官候補生試験には合格したが、士官候補生に任命されるのは、

教導団で規定どおり二年間学び、卒業して工兵軍曹に任官してから、と申し渡されたのである。

 せっかく入団してすぐ試験に合格していながら、翌年受験のものとかわりないことになる。

形式張った決定に、泰蔵は内心、悲憤皆慨をおぼえた。しかしそのような気持ちを表に現わさず、

勉学に徹するように努めた。士官学校入学にそなえ、兵学に対する造詣を、

いっそう深めておこうと考えたのである。こうした泰蔵の姿勢が、まわりのものには、

磊落(度量が広く、小事にこだわらないこと)な男と映ったようだ。泰蔵もまた、

いつか、己を磊落男子と意識するようになり、漢詩の中で、

「上毛之磊落男児福島泰蔵」などと称している。

 この年の大晦日、教導団に大量の酒肴の支給があった。

陸軍省が直轄学校に特別配給したもので、それまではなかったことだった。

日本酒の大樽に鱈、鰻、するめ、豚肉などがふるまわれた。

 各兵舎とも、その夜は消灯時問が延長され、忘年会で娠わった。

 教導団のある国府台に辿なる小高い山の上に弘法寺という寺があった。

大晦日の鯨飲馬食の忘年会のあと、福島は弘法寺に初詣でをし大声放吟したと漢詩に詠じている。

これまた、明治二十年という時代に生きた、当時の陸軍に籍をおく若者の、

今も変わらぬ、若者の姿であ った。

 


高倉健と福島泰蔵の生き方、其の2

2013年04月22日 | 近世歴史と映画

泰蔵 平民から軍人へ

 平塚村に、福島とは同じ年代の、田部井某という、「福甚」の親類筋に

あたる男がいた。

田部井は明治十七年、陸軍の教導団に入団し、軍人への道を

あゆみはじめていた。

 教導団は修業年限二年の、当時の陸軍の下士官養成機関である。

明治六年、兵学寮より独立し、陸軍省の直轄となった。兵舎は東京日比谷の

練兵場内にあった。そして明治十八年十二月、千葉県の国府台

(現在の市川市)に兵舎を新築し、移転した。

(なお教聊団は、明治三十三年に廃止されている)。

 田部井は帰郷のたびに教導団の話をして、福島に入団をすすめた。

当時、陸軍将校になろうとしても、陸軍士官学校の受験そのものが、

まず華族か士族でないとむずかしかった。しかし、教導団は、

平民でも応募することができた。そして成績優秀な者には士官候補生への

道も拓かれており、更に陸軍士官学校を受験することもできると、

田部井はいった。

 福島の心は動いた。福島は平民で、農家の長男である。陸軍士官学校を

直接受験することはむずかしいが、教導団に入団しさえすれば、

成績次第で陸軍士官学校を受験することもできるというところが魅力だった。

 福島は教導団に応募の手続きをとった。願書の提出にあたっては、

世良田村の戸長北爪権平に添状を書いてもらった。当時、

農家の長男だと、兵役免除で願書は受理されない制度だったからである。

兵科は工兵科を希望した。

 採用試験は、日比谷練兵場内の兵舎で行われた。漢文の試験と、面接、

そして身体検査があった。

 もちろん、合格である。

 入団のため福島は、明治十九年十一月末の夜半に、

平塚村の生家をあとにした。

赤城おろしが吹き、すでに寒かったが、木綿の単衣の筒袖に、

桐生製の兵児帯、

素足に突掛け草履という粗末な身仕度だった。俗にいう冷や飯草履である。

下着も、上下とも木綿ものだった。入団すれば官給の衣類があるからといって、

福島は身仕度のことなどには頓着しなかった。しかし母のあさは、

風邪をひかぬようにと、

シャツだけは二枚重ねて着させた。

そして母のあさは、士官になるまでは家の敷居を跨いではならぬと諭した。

母のいましめをまもり、福島は以来、七年も、家に帰っていない。