アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

福島泰蔵の人柄

2013年04月30日 | 近世歴史と映画

 

同期生の鈴木孝雄はまた、士官候拙生時代の福島について、こうも言っている。

「彼は教官にへつらうようなことは全くしない男だった。時には教官に痛烈な質問を浴びせ、

回りの者を驚かせたりした。人気者だった。自分等も、彼の元気さ、気力には、大いに刺激されたものだ」

これまでみてきたところでは、刻苦勉励するきまじめな姿が浮かびあがってくるが、

意外な一面ももっていたようだ。やはり同期生で、のちに陸軍少将まで、

すんだ男爵黒田善治は、福島が十和田山八甲田山を越え雪中踏破に成功したのち、

次の書簡を寄せている。       ’

君は、同室時代、随分とズボラなりし。之を知る僕は、極めて愉快。

前代未聞の雪中行軍に成功を収めた事をひと一倍喜んでゐる。

この勢いで進めば、いづれ君は、将軍の鼻をへし折る日もあらんかと、

楽しみにしている。然し、大ぼらは吹くな。

 

『鈴木孝雄 すずき-たかお

1869-1964 明治-昭和時代前期の軍人。

 明治2年10月29日生まれ。鈴木貫太郎の弟。日清(にっしん)・日露戦争に従軍。陸軍省軍務局砲兵課長,

   陸軍士官学校校長,技術本部長などをつとめる。昭和2年陸軍大将。退役後靖国神社宮司(ぐうじ)       

          大日本青少年団団長となる。昭和39年1月29日死去。94歳。東京出身。陸軍士官学校卒。』

 


泰蔵に影響を与えた人々

2013年04月30日 | 近世歴史と映画

高崎連隊(歩兵第十五連隊)の

このころ、郷土の先輩、安川繁成を、東京青山の邸宅に訪問している。

遠縁にあたる安川は当時、会計検査院第一部長たった。

それまで一度も会ったことはなかった。玄関で名刺を渡すと、

門番は名刺を持って家に入り、再び出て来て、福島を一室に案内した。

 案内された部屋で、しばらく待ったが、家の主人はいっこうに現われようとしない。部屋は、

庭に面していた。庭では一人の老人が、草むしりをしている。

一時間近く経った。老人はまだ草むしりをつづけていた。

福島はだんだん腹立たしくなってきた。

「予ヲ一ノ武学生ナリト軽蔑スルカ。将タ、他ニ用事アリテ出デ来ラザルカ。実ニ、失敬ノ事ナリ。」

ぶつぶついっていた。

 ところが、庭で草むしりをしていた老人がとつぜん、つかつか福島の

いる部屋にあがってきたのである。なんと、安川繁成その人だった。

福島があわてたのはいうまでもない。

 言葉は上州弁の、いわゆるべーべー言葉で、路上で会えば唯の田舎者の

老人としか見えないだろう、と記している。

老人といっても、福島の眼にそう映っただけのこと、

せいぜい五十歳かそこらであった。福島はこの安川繁成の知遇を受け、

生涯の師にする多くの人たちを紹介されていう。

 

『「安川繁成 やすかわ-しげなり』

1839-1906 明治時代の政治家,実業家。

 天保(てんぽう)10年3月生まれ。もと陸奥(むつ)白河藩(福島県)藩士。戊辰(ぼしん)戦争で岩倉具視(ともみ)にみとめられる。工部大書記官や会計検査院部長をへて日本鉄道監査役や愛国生命保険社長をつとめた。明治31年衆議院議員(憲政本党)。明治39年8月29日死去。68歳。上野(こうずけ)(群馬県)出身。本姓は岩崎。