同期生の鈴木孝雄はまた、士官候拙生時代の福島について、こうも言っている。
「彼は教官にへつらうようなことは全くしない男だった。時には教官に痛烈な質問を浴びせ、
回りの者を驚かせたりした。人気者だった。自分等も、彼の元気さ、気力には、大いに刺激されたものだ」
これまでみてきたところでは、刻苦勉励するきまじめな姿が浮かびあがってくるが、
意外な一面ももっていたようだ。やはり同期生で、のちに陸軍少将まで、
すんだ男爵黒田善治は、福島が十和田山八甲田山を越え雪中踏破に成功したのち、
次の書簡を寄せている。 ’
君は、同室時代、随分とズボラなりし。之を知る僕は、極めて愉快。
前代未聞の雪中行軍に成功を収めた事をひと一倍喜んでゐる。
この勢いで進めば、いづれ君は、将軍の鼻をへし折る日もあらんかと、
楽しみにしている。然し、大ぼらは吹くな。
『鈴木孝雄 すずき-たかお
1869-1964 明治-昭和時代前期の軍人。
明治2年10月29日生まれ。鈴木貫太郎の弟。日清(にっしん)・日露戦争に従軍。陸軍省軍務局砲兵課長,
陸軍士官学校校長,技術本部長などをつとめる。昭和2年陸軍大将。退役後靖国神社宮司(ぐうじ)
大日本青少年団団長となる。昭和39年1月29日死去。94歳。東京出身。陸軍士官学校卒。』