毎年の恒例の企画です。
体験談のほか、紙芝居やコーラス、人形劇、手品などの楽しい催しです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/9d/434cf4e90f9bc5cc0d8a76ce484a15aa.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/4a/acb59900238bb0b2d5137464d2e72fd9.jpg)
(千葉市空襲と戦争を語る会)よりhttp://itou-seki.la.coocan.jp/
1945年6月10日、同年7月7日に千葉市に大きな空襲がありました。
1941年12月8日アジア・太平洋戦争が日本軍によるハワイの真珠湾攻撃、マレー半島のコタバル上陸で開始されました。
それまでに日本軍は朝鮮、中国を侵略していました。日本軍は戦線をアジアに拡大したが、戦局は不利になり、
米軍を中心とする連合軍の反撃で、1945年3月には東京大空襲、同年6月には沖縄地上戦、6,7月には千葉空襲、8月には広島、
長崎原爆投下、最終的に8月15日、日本政府はポツダム宣言を受託し戦争は終わりました。
私たちは2008年秋に「語る会」の前身の千葉空襲とアジア・太平洋戦争の記録100人証言集編集委員会は「100人証言」
を3000部発刊しました。100人証言集発刊に当たり、熊谷直人千葉市長から祝辞を戴きました。
ところが、千葉市空襲の犠牲者約900人の犠牲者の氏名が不明、未公表であることが分かりました。
上記の編集員会は2010年10月発展的に解消し、「千葉市空襲と戦争を語る会」が発足しました。
「語る会」には千葉空襲や東京空襲を体験した人が参加しています。「語る会」は空襲記念日の事業の実施、犠牲者の氏名の
名簿作成、公表、犠牲者慰霊碑の建立を目指すことを確認しました。
また、全国空襲被害者連絡協議会に加盟し、空襲犠牲者の被害補償を実施させ、二度と戦争が起こらないことを法律として
確定することも目指しています。語る会は空襲と戦争のない千葉市の実現に向けて貢献をしたいと決意しています。
(ちば・戦争体験を伝える会)よりhttp://www.geocities.jp/sensotaiken/
昭和20(1945)年、太平洋戦争の終戦間近、日本全土の各都市に続いて、 千葉市にも数回にわたるアメリカ軍による
空襲(空爆)がありました。
中でも、6月10日と7月7日の2度の空襲で、中心市街地の約7割が焼け野原となり、 死傷者1595人、被災戸数8,904戸、
被災者41,212人に及んだとのことです。
参考資料 千葉市市民局市民部市民総務課発行「千葉空襲写真誌」
6月10日
27機のB29による、午前7時45分からわずか1分ほどの爆弾投下で、被害地域は日立航空機千葉工場(旧川鉄・現JFE)の一部と
蘇我町1丁目、更に、新宿・富士見・新田町・新町付近で、死傷者391人、被災戸数415戸、被災面積26ヘクタールとのこと。
兵器工場となっていた千葉師範学校女子部では、日曜日も出校していた女学生が犠牲になっています。
7月7日(七夕空襲と言われている)
深夜午前1時過ぎからの、129機のB29による爆弾・焼夷弾攻撃で、中心市街地が焼き尽くされ、死傷者1,204人、被災戸数8,489戸、
被災面積205ヘクタールに及んだとのこと。
都川を隔てて亥鼻・葛城側は焼け残り、本町・亀岡・院内・椿森と、千葉市の主要な施設、千葉地方裁判所・千葉郵便局・千葉駅・
本千葉駅や、鉄道第一聯隊・気球聯隊・歩兵学校・千葉陸軍高射学校など軍事関連施設が被害を受けたとのkとです。
体験談のほか、紙芝居やコーラス、人形劇、手品などの楽しい催しです。
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(千葉市空襲と戦争を語る会)よりhttp://itou-seki.la.coocan.jp/
1945年6月10日、同年7月7日に千葉市に大きな空襲がありました。
1941年12月8日アジア・太平洋戦争が日本軍によるハワイの真珠湾攻撃、マレー半島のコタバル上陸で開始されました。
それまでに日本軍は朝鮮、中国を侵略していました。日本軍は戦線をアジアに拡大したが、戦局は不利になり、
米軍を中心とする連合軍の反撃で、1945年3月には東京大空襲、同年6月には沖縄地上戦、6,7月には千葉空襲、8月には広島、
長崎原爆投下、最終的に8月15日、日本政府はポツダム宣言を受託し戦争は終わりました。
私たちは2008年秋に「語る会」の前身の千葉空襲とアジア・太平洋戦争の記録100人証言集編集委員会は「100人証言」
を3000部発刊しました。100人証言集発刊に当たり、熊谷直人千葉市長から祝辞を戴きました。
ところが、千葉市空襲の犠牲者約900人の犠牲者の氏名が不明、未公表であることが分かりました。
上記の編集員会は2010年10月発展的に解消し、「千葉市空襲と戦争を語る会」が発足しました。
「語る会」には千葉空襲や東京空襲を体験した人が参加しています。「語る会」は空襲記念日の事業の実施、犠牲者の氏名の
名簿作成、公表、犠牲者慰霊碑の建立を目指すことを確認しました。
また、全国空襲被害者連絡協議会に加盟し、空襲犠牲者の被害補償を実施させ、二度と戦争が起こらないことを法律として
確定することも目指しています。語る会は空襲と戦争のない千葉市の実現に向けて貢献をしたいと決意しています。
(ちば・戦争体験を伝える会)よりhttp://www.geocities.jp/sensotaiken/
昭和20(1945)年、太平洋戦争の終戦間近、日本全土の各都市に続いて、 千葉市にも数回にわたるアメリカ軍による
空襲(空爆)がありました。
中でも、6月10日と7月7日の2度の空襲で、中心市街地の約7割が焼け野原となり、 死傷者1595人、被災戸数8,904戸、
被災者41,212人に及んだとのことです。
参考資料 千葉市市民局市民部市民総務課発行「千葉空襲写真誌」
6月10日
27機のB29による、午前7時45分からわずか1分ほどの爆弾投下で、被害地域は日立航空機千葉工場(旧川鉄・現JFE)の一部と
蘇我町1丁目、更に、新宿・富士見・新田町・新町付近で、死傷者391人、被災戸数415戸、被災面積26ヘクタールとのこと。
兵器工場となっていた千葉師範学校女子部では、日曜日も出校していた女学生が犠牲になっています。
7月7日(七夕空襲と言われている)
深夜午前1時過ぎからの、129機のB29による爆弾・焼夷弾攻撃で、中心市街地が焼き尽くされ、死傷者1,204人、被災戸数8,489戸、
被災面積205ヘクタールに及んだとのこと。
都川を隔てて亥鼻・葛城側は焼け残り、本町・亀岡・院内・椿森と、千葉市の主要な施設、千葉地方裁判所・千葉郵便局・千葉駅・
本千葉駅や、鉄道第一聯隊・気球聯隊・歩兵学校・千葉陸軍高射学校など軍事関連施設が被害を受けたとのkとです。