どうでもいいです、の話

「どうでもいい」トピックスを載っけていたり、公記事の保守をしたしするページです。

保守記事.391-11 失われたもの

2011-04-30 12:04:21 | 記事保守

東日本大震災:「顔が水より冷たく…」 被災児童が日記

全国から寄せられた激励メッセージへの返事を書く箱石佑太君(左手前)=岩手県山田町の町立大沢小で2011年4月4日、篠口純子撮影
全国から寄せられた激励メッセージへの返事を書く箱石佑太君(左手前)=岩手県山田町の町立大沢小で2011年4月4日、篠口純子撮影

 「お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました」。巨大地震と大津波が東日本を襲ったあの 日、子供たちは何を見、その後をどう生きたのか。岩手県山田町の町立大沢小学校を3月に卒業した箱石佑太君(12)が毎日小学生新聞に寄せた体験日記には 震災と向き合う姿が率直につづられていた。

 ◇3月11日

 卒業式の歌の練習をしていました。とてもゆれの大きい地震が来ました。最初は単なる地震だと思っていました。大津波警報が出ても、どうせこないと 思っていました。来たとしても10センチメートル程度の津波だと思っていました。全然違いました。ぼくが見たのは、国道45号線を水とがれきが流れている ところです。お母さんとお父さんが津波が来る前に大沢小に来ているところは見ました。だけどその後、お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。お父 さんのことが不安でした。車を運転しながら津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました。

 ◇3月18日

 津波から1週間。お母さんは、もうこんなに日がたっているのに、まだお父さんが見えないとあきらめていました。じいやんは泣いて「家も頑張って建 てるし、おまえたちだってしっかり学校にいかせられるように頑張るから、お父さんがもしだめだとしても頑張るからな」と言っていました。

 ◇3月23日

 卒業式でした。「ありがとう」の歌を歌っている時、お父さんに「お父さん、お父さんのおかげで卒業できたよ。ありがとう」と頭の中で言いました。 そしたらなぜか、声がふるえて涙が少し出てきました。その夜、こんな夢を見ました。お母さんとお父さんが宮古のスーパーマーケットから帰ってきた夢でし た。

 ◇3月25日

 親せきの人の携帯に電話がかかってきました。内容は、お父さんらしき人が消防署の方で見つかったということでした。急いで行ってみると、口を開け て横たわっていたお父さんの姿でした。ねえちゃんは泣き叫び、お母さんは声も出ず、弟は親せきの人にくっついていました。顔をさわってみると、水より冷た くなっていました。

 ぼくは「何でもどったんだよ」と何度も何度も頭の中で言いました。「おれがくよくよしてどうすんだ」と自分に言いました。でも、言えば言うほど目 がうるんでくるばかりです。お父さんの身に付けていたチタン、東京で買った足のお守りや結婚指輪、携帯。そして驚いたのが時計が動いていたことです。お父 さんの息が絶えた時も、津波に飲み込まれている時も、ずっと。お父さんの時計は今はぼくのものになっている。ぼくがその時計をなくしたりすることは一生な いだろう。

 ◇3月26~27日

 見つかった時のお父さんの顔。まだ頭のどこかで見なきゃよかったと。でも見つかったおかげで火葬もできるし、お父さんをさわることができた。お父さんの体は水を飲んだのか胸がふくらんでいるだけだ。やっぱり見つかってよかった。

 ◇3月28日

 きょうは火葬の日。ぼくとねえちゃんとお母さんとけいじろうは、手紙を書いて、お父さんと一緒に入れてやりました。拝んでいる時ぼくは「箱石家は頑張って継ぐからまかせて」と言いました。お墓に骨を埋めるまで、ぼくに骨を持たせてくれました。骨をうめてホッとしました。

 ◇4月7日

 きょうは、ありがたいと心から言える日でした。お父さんとぼくたちの記事を見て、お父さんが東京マラソンを走った時の写真とお手紙を新聞の人が 持ってきてくれました。ぼくたち家族に贈る言葉や、さらにはぼくに贈る言葉の手紙もありました。やっぱりお父さんはすごい。今日は本当にありがたい日だ。

 *    *

 箱石君は25日、155人の仲間と一緒に町立山田中学校に入学した。日記は、大沢小の子供たちが復興に立ち向かう様子を紹介する「大沢からの報 告」として毎日小学生新聞に11日に掲載。「何回も読み、涙が止まりません。皆様が少しずつでも前に進める日がくることを願っております」(2人の子を持 つ東京都北区の女性)とのメールが届くなど大きな反響を呼んだ。「大沢からの報告」は同紙で随時掲載され、次回は5月11日の予定。

 

 

東日本大震災:2日前のプロポーズ 「はい」と言えず…

行方不明の恋人の帰りを待つ成沢公子さん=宮城県南三陸町の県志津川自然の家で2011年4月21日、垂水友里香撮影
行方不明の恋人の帰りを待つ成沢公子さん=宮城県南三陸町の県志津川自然の家で2011年4月21日、垂水友里香撮影

 東日本大震災で被災し、宮城県南三陸町の県志津川自然の家に避難している成沢公子さん(34)は、行方不明の自動車販売店勤務の男性(52)と再 会する日を待ち続けている。離婚歴がある二人。震災の2日前にプロポーズされ、新たな人生を歩もうと誓ったばかりだった。成沢さんは3人の子供を抱える が、病院事務の仕事も失った。「自分の半分がなくなってしまった感じ」。心の空洞が広がるのを止められない。【垂水友里香】

 成沢さんは3月9日、自宅で男性と会っていた。以前からの知り合いで、離婚後に付き合い始めて2年。お互い口に出さなくても次のステップを意識し ていた。この日、男性はいつもと変わらなかったが、帰ろうとした時、玄関で体を引き寄せられた。耳元で「老後は一緒にいようね。おれが守るから」と告げら れた。成沢さんの答えは「またそんな期待させるようなこと言って」。照れ隠しで真剣に答えなかった。顔を見て話した最後の会話だった。

 震災から約1カ月たっても成沢さんの自問自答は続く。「あの日『はい』と言えなかった。言っていたら何か変わっていたかな」

 つらくなると携帯電話のメール画面に目がいく。地震直後の11日午後2時50分の受信メールは「地震大丈夫?」と成沢さんを心配する内容だった。 「大丈夫じゃない。怖い」と返信すると、自宅にいる両親の様子を見てくると伝えてきた。その後も「大津波警報が出たから、海に近づかないで」と送信してき た。午後3時57分に「両親は大丈夫?」と尋ねて以来、返信はない。

 助かった男性の両親によると、男性は自宅に立ち寄った後、会社に戻ったという。今月中旬、男性の乗用車が会社から約100メートル離れた川の縁でつぶれた状態で見つかった。行方不明者届を出したが手掛かりはない。

 成沢さんは「うそ。絶対(私を)置いていくはずがない」と自分に言い聞かせる。両親に男性の存在を打ち明け、互いの子供たちと一緒に暮らそうと決断した。その直後だけに「自分の中の半分がなくなってしまった感覚」が膨らんでいく。

 病院も被災し、失業した。「子供がいるからしっかりしなきゃ」と奮い立たせても落ち込むことを繰り返す。気持ちが沈むと、男性が「おれが守る」と言った声がよみがえる。そして少しだけ顔を上げられる。「ある日『連絡取れなくてごめんね』と会いに来るって信じられるの」

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保守記事.391-10 DASH村

2011-04-25 14:13:54 | 記事保守

「ダッシュ村その後」城島が村人と感動の再会果たす!!

2011年04月24日

 「ザ!鉄腕!DASH!!」(日テレ)で約10年もの長い間放送を続けてきたDASH村。主にTOKIOメンバーらが、村人たちと共に昔ながらの生活を体験するという趣旨の番組で、視聴者に暖かさや田舎の素晴らしさを思い出させてくれる番組です。

震災後、この村の所在地は福島県浪江町にあることが判明。震度6の地震と大津波、そして原発事故により避難指示が出ており、その後の村人たちの安否が心配されていました。 

24日放送の同番組で、ようやく村の現在の様子や村人たちについて放送。浪江町の沿岸部はあらゆるものがなぎ倒されるなど、当時の震災の悲惨さが伝 わってきます。村で飼っていた動物たちは「伊香保グリーン牧場」に、柴犬の北斗はスタッフの家に預けられ、人々は避難生活を強いられています。

現在、漬物名人の三瓶孝子さんは福島市にある娘夫婦の家に仮住まい。同じく福島市内に避難をしている、ダッシュ村を支えてくれていた村人たち数名も集合し、城島と感動の再会を果たしました。

「避難生活は1カ月が限界」「気のみ着のままで飛び出した」「飼っていた牛は3頭死んだ。3日ごとに(村へ)戻って牛の世話をしに行ったんだが、人 間がいないことに恐怖を感じているのか震えながら飼料を食べていた」「蜂はそのままにしている」「今回の震災は地震、津波、原発、風評被害、4つの被害が 重なって身動きがとれない。姿の見えない幽霊につきまとわれ、右往左往して恐怖し不安を覚えている状態」などと口ぐちに近況を報告。

親しみ深い村人の顔が見れて、ほっとしたと話す城島。またいつか、村人たちによるDASH村が復活する日が来ますようにと、願わずにいられません。

 (文=ricaco)

 

DASH村も原発避難区域 TOKIO「元に戻したい」

 人気アイドルグループ「TOKIO」が日本テレビ系列の番組「ザ!鉄腕!DASH!!」の企画として10年以上にわたって築き続けてきた「DASH村」 が、福島第一原発事故の影響で「計画的避難区域」に入った。メンバーは24日夜の放送で、復興に向けて活動していくことを誓った。

 DASH村は福島県浪江町の山間部にあり、メンバーは2000年から地元の人と野菜を育てたり、食卓を囲んだりしてきた。ただ、人が集まって混乱しないよう、番組では所在地を公表してこなかった。

 この日の放送では、DASH村が浪江町にあることを明示し、村を手伝ってくれていた浪江町民や飼っていた動物が無事避難していることを紹介。リーダーの 城島茂さんが町民のもとを訪れた様子が映し出された。メンバーはそれぞれに「何としても元に戻さないと」(松岡昌宏さん)、「村を作り直せば、きっと元気 を取り戻せる」(国分太一さん)などと話した。

 浪江町の馬場有(たもつ)町長は、役場機能を移転している同県二本松市で放送を見た。過去の映像が流れると「懐かしい浪江だな」と一言。そして「町民みんなで復興していく」と決意を語った。

 DASH村の放送開始当時に番組担当プロデューサーだった日本テレビの今村司・編成企画部長は「DASH村の復興は浪江町の復興であり、東北地方の復興。番組を作っている者みんなで向き合っていきたい」と話した。(南出拓平、田村隆)

 

DASH村の場所 遂に公式ネタばらし

5:名無しさん@涙目です。(dion軍)2011/04/24(日) 19:56:43.84ID:oC1JJUE50
知ってた



9: [―{}@{}@{}-] 名無しさん@涙目です。(関西地方)2011/04/24(日) 19:57:06.36ID:Uv7ZMUQtP
へ~知らなかった~(知ってた)



13:名無しさん@涙目です。(埼玉県)2011/04/24(日) 19:57:38.69ID:o3ta37vJ0
隠し切れなかったのか・・・・(知ってた)



25:名無しさん@涙目です。(広島県)2011/04/24(日) 19:58:10.24ID:ZrdNFVEOP
みんな知ってたじゃん



344:名無しさん@涙目です。(愛知県)2011/04/24(日) 20:30:26.15ID:xZUs4kLX0
火事の時バレてたよね
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不注意

2011-04-18 17:29:32 | 記事保守

登校児童の列にクレーン車、6人死亡

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登校中の小学生の列に突っ込んだクレーン車(18日午前、栃木県鹿沼市で、読売ヘリから)=松本剛撮影
小学生の列に突っ込んだクレーン車を調べる捜査員(18日午前、栃木県鹿沼市で)=太田晶久撮影
 
小学生の列に突っ込んだクレーン車

 18日午前7時45分頃、栃木県鹿沼市樅山(もみやま)町の国道293号で、集団登校中の同市立北押原(きたおしはら)小学校の児童20~30人の列に、クレーン車(12トン)が突っ込んだ。

 児童6人が病院に搬送され、男児5人、女児1人が死亡。県警鹿沼署は前方不注意だったなどとして、日光市大沢町、運転手柴田将人容疑者(26)を自動車運転過失傷害の疑いで現行犯逮捕し、容疑を同致死傷に切り替えて調べる。

 死亡したのは、4年の伊原大芽(たいが)君(9)、関口美花さん(9)、下妻圭太君(9)、5年の星野杏弥(きょうや)君(10)、6年の大森卓馬君(11)、熊野愛斗君(11)の計6人。

 県警の発表などによると、クレーン車が対向車線をはみ出し、反対車線の歩道の縁石を乗り越え、児童の列の真ん中に突っ込んだという。児童らは幅5 メートルの歩道をクレーン車とは反対方向に歩いていた。現場は北押原小の約150メートル北側の住宅街。片側1車線(幅9メートル)の直線道路で、歩道と 車道の間にガードレールはなかった。当時の天候は曇りで路面は乾燥しており、ブレーキ痕はなかった。

(2011年4月18日14時49分  読売新聞)

歩道にランドセル散乱、クレーン車減速せず?

 ドーンという大きな音とともにクレーン車が集団登校中の小学生の列に突っ込んだ。

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 栃木県鹿沼市で18日朝、市立北押原(きたおしはら)小学校4~6年の児童6人が死亡した事故。歩道には児童数人が倒れ、血だらけのランドセルが散乱。目撃者によると「クレーン車は減速していなかったように見えた」といい、県警鹿沼署で調べている。

 「クレーン車は中央線をはみ出し、歩道を乗り越えて、集団登校していた児童の列の真ん中に突っ込んだ」。目撃した無職男性(54)は、そう話した。

 目撃した会社員の女性(54)によると、事故当時、道路を通行していた車は少なかったといい、「クレーン車はあまり減速せず、ブレーキを踏んでい なかったように見えた」と振り返る。運転手はクレーン車から降りて、「近くにいた人に『すみません、すみません』と謝っていた」という。

 北押原小に2人を通わせている母親(29)は、ドーンという大きな音を聞いて現場に駆けつけた。「歩道に血だらけのランドセルが散乱し、児童数人 が倒れていた。茶色のつなぎを着た運転手が放心状態でウロウロしていたが、警察官にパトカーに乗せられ、連れて行かれた」と興奮した様子で語った。

 「ドドーンという大きな衝撃音がした後、グシャッと何かが崩れるような音がした」と現場近くの自動車整備工場で働く男性(51)は振り返った。男 性が外に出てみると、「児童が泣き叫んでいた」といい、近くの歩道で登校の様子を指導していた同小の教諭が「大丈夫か」と児童に向かって大声で呼びかけて いたという。

(2011年4月18日15時20分  読売新聞)

クレーン車事故:「弟巻き込まれた」 中央線越え児童列に

2011年4月18日 11時47分 更新:4月18日 15時13分

事故発生時の状況
事故発生時の状況

 新学期が始まったばかりの登校の列に車が突っ込む悲劇がまたも繰り返された。栃木県鹿沼市で児童6人が死亡した事故。「助けて」「救急車、救急 車」などと叫び声が飛び交う中、悲鳴も上げられず現場に立ちつくす児童、泣き崩れる母親……。近所の住民らは「歩道の幅が広く、安心だと思っていたのに」 と惨劇に青ざめた。

 県警鹿沼署によると、柴田将人容疑者(26)のクレーン車は中央線を越え対向車線の歩道で児童をはね、住宅に突っ込んだ。県鹿沼土木事務所によると、歩道は街道の杉並木だった場所に造成され、幅約5メートル。歩行者と自転車のレーンはポールで分離されている。

 近くの60代の女性は「大きな音を聞いて表に出た。血の気が引いた土気色の顔をした女児が倒れていた。歩道幅が広く、安心だと思っていたので、ま さかこんな大事故がおきるとは……」と話した。近くに住む主婦(54)によると、現場では何人かの児童が悲鳴も上げず立ちすくんでいたという。「何があっ たの」と尋ねると「車が突っ込んだ」と口々に話し、「弟が車に巻き込まれた」と泣き出す児童もいた。

 児童らが通う市立北押原小学校では、午前11時から緊急の職員会議が開かれ、事故の対応などを話し合った。学校に駆け付けた3年生の母親は「テレビのニュースで事故を知り、心配になって来た。自分の子供は無事だったが、本当に怖い」と青ざめて語った。

 児童2人がドクターヘリで搬送された栃木県壬生町の独協医科大病院では、学校関係者2人が容体などの説明を待っていた。また、児童の両親とみられる人たちは悲しみの表情を浮かべていた。

 柴田容疑者は約1年前から鹿沼市内の建築会社に勤めており、17日は休みで、18日はクレーン車で工事現場に向かう途中だったという。勤務先の社長(67)は「なぜこんなことになってしまったのか」と絶句した。

 埼玉県川口市で06年、保育園児21人が死傷した事故で、長女悠月(ゆづき)ちゃん(当時5歳)を亡くした福地禎明さん(42)は、今回の事故に ついて「川口の事故では生活道路だったが、見通しが良い直線道路という点では状況は似ている。普通に運転していれば考えられない事故。何らかの危険な運転 行為があった可能性もある。原因を徹底的に調べてほしい」と指摘した。【中津成美、町田結子】

悲鳴、泣き崩れる女性…あたりを歩き回るだけ、呆然の運転手

2011.4.18 13:13
柴田将人容疑者

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柴田将人容疑者

 1台のクレーン車が普段と変わらぬ朝の通学風景を一変させた。栃木県鹿沼市樅山町の国道 293号沿いで18日朝、登校中の小学生児童の列にクレーン車が突っ込んだ。現場でぐったりと倒れる子供たち。救出する保護者に、泣き崩れる女性-。市立 北押原小学校に通う児童5人が死亡する痛ましい事故。目撃した男性は「思わず目をそらしてしまった」と振り返った。

 「きゃ-」という悲鳴が突然、響いた。鹿沼市の塗装業の男性(55)は、1列になって歩いていた児童にクレーン車が突っ込むところを散歩中に目撃した。「ドーン」という音とともにクレーン車は民家の敷地内に突っ込み、止まった。砂煙があがった。

  血を流して倒れる複数の児童たち。駆け寄る保護者らは、下敷きになっている子供を必死に救おうとしていた。泣き叫ぶ女性の姿もあった。運転していた男は呆 (ほう)然(ぜん)としたままクレーン車を降り、どうしていいのか分からない様子でフラフラとあたりを歩き回るだけだった。

 北押原小は8日に始業式を行い、新学期が始まったばかり。事故に巻き込まれた児童6人は8時の登校時間に向け、集団登校をしていた。

 近くに住む男性(51)は、ドドーンという大きな音で外に飛び出したという。「まさかこんなことになるとは…」と語る。

 また、近所の女性(50)は「私の孫も同じ小学校に通っているので、あわててとんできた。とにかく怖い。けがをした子供たちがかわいそう」と声を震わせていた。

 

 

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保守記事.131-16 再生させる気はあるのか?

2011-04-15 17:14:46 | 記事保守

都知事・小泉チルドレン…夕張市長選に弁士続々

 財政破綻以来、2度目となる夕張市長選(17日告示、24日投開票)に立候補を予定している一部陣営を応援するため、石原慎太郎東京都知事や、かつての“小泉チルドレン”の女性国会議員らが、夕張市入りすることになった。

 一方、外部からの応援は一切受けずに選挙戦に臨む陣営もおり、有権者の判断にどう影響するかが注目される。

 元都職員鈴木直道氏(30)の陣営の応援には、先日4選を果たしたばかりの石原知事が告示後の20日、夕張市入りする。石原氏が同市に入るのは、 財政破綻以来初めてとなる。石原氏は午後2時からの街頭演説、午後3時から市内の「はまなす会館」で行う総決起集会に参加予定という。陣営では「『東京と 夕張をつなぐ』と訴えている我々には、大きな勢いになる。ムードを盛り上げていきたい」と歓迎する。2月に夕張市を訪れ、鈴木氏の応援を行っている猪瀬直 樹副知事も、選挙戦終盤に夕張を訪れる見込みだ。

 前衆院議員飯島夕雁氏(46)の陣営には、告示前の15日に佐藤ゆかり、告示後の18日に片山さつきの両自民党参院議員が、それぞれ応援に訪れ る。陣営では「飯島の衆院議員時代の仲間である2人が、ぜひ応援したいと自ら名乗りを上げてくれた」と話す。21日には、武部勤・自民党元幹事長と親交が ある俳優の杉良太郎さんも夕張入りし、飯島氏とともに、市内の福祉施設などを回る予定だ。このほか、17日朝の第一声には橋本聖子参院議員らが出席。推薦 しているみんなの党や、公明党の国会議員も、期間中に夕張入りする予定といい、応援の総数は10人近くになる見通しだ。

 一方、外部から応援の有名人を呼ぶ予定が今のところないのは、農業羽柴秀吉氏(61)と、塩販売業笹谷達朗氏(52)の2陣営。

(2011年4月15日07時43分  読売新聞)
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保守記事.391-3-2 何しに来たんだ?

2011-04-15 17:11:54 | 記事保守

炊き出しの後に反省会…酔って脱線した副町長

東日本大震災の被災者をご当地グルメで元気づけようと、岡山県が今月、福島県会津美里町の避難所に派遣した岡山県美咲町の形井(かたい)圓(まどか)副町長と町職員らが、炊き出しの後、地元ラーメン店で酒を飲み、女性店員に「お姉さん、こっちに来れば」「刺し身はないのか」などと、配慮を欠く言動をしていたことが分かった。

 関係者によると、美咲町の形井副町長と職員7人が5日夜、ラーメン店でビールや日本酒を飲んだ際、副町長が女性店員に 話し掛けた。副町長らは6日夜も県職員を含む十数人で、県チャーターのバスに乗って居酒屋に行き、1人飲み放題約4500円の「反省会」を行っていたとい う。

 形井副町長は「場を和ませるため、話し掛けた。居酒屋は食事のつもりだったが、被災地に近いことを考えると軽率だったかもしれない」と話してい る。しかし、参加者の一部からは「日々の食事に困っている被災者に申し訳ない。ボランティアの気持ちが台無しだ」との声が出ている。

(2011年4月15日10時30分  読売新聞)
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保守記事.391-2-3 希望の光

2011-04-15 16:26:13 | 記事保守

大津波で妻と息子を失った市職員 「負けないで」と被災者に呼びかけ

2011.3.18 22:02 (1/2ページ)
地震発生時刻に合わせ、妻子の冥福を祈る市職員の西城卓哉さん。右下は、西城さんが決意を記した張り紙=18日、宮城県名取市役所

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地震発生時刻に合わせ、妻子の冥福を祈る市職員の西城卓哉さん。右下は、西城さんが決意を記した張り紙=18日、宮城県名取市役所

 「苦しいけど 負けないで! 名取市職員 S」。東日本大震災で大津波が押し寄せた宮城県 名取市の市役所玄関ガラスにこんなメッセージが書かれた紙が張り付けてある。書いたのは名取市職員、西城卓哉さん(30)。津波で最愛の妻、由里子さん (28)が行方不明になり、8カ月の長男、直人くんを失った。自分と同じくかけがえのない家族を失った人たちは多い。それでも精いっぱい生きてほしい-。 そんな思いを込めたという。

 3月11日。激しい揺れを感じた西城さんはすぐに、職場から由里子さんの携帯電話を鳴らした。一瞬つながった が声を聴けず、途切れた。すぐに市役所は地震で大混乱、職員としてさまざまな対応に追われ、気が付くと12日未明になっていた。ようやく自宅マンションへ 戻ると、エレベーターは止まり、泥に足をとられた。部屋に入ると、2人の姿はなかった。近くの由里子さんの実家へ向かった。

 毛布、食料、 紙おむつ…。寒さと飢えをしのげるよう紙袋に目一杯詰め込んで、必死に歩いた。「あとは、2人を見つけるだけ」。しかし、周辺に原形をとどめる家はほどん どなく、がれきの山だ。ひょっとしたら、がれきの下敷きになっているかも知れない…。由里子さんの実家を目指しながら、一晩中捜した。しかし、実家も建物 はなくなっていた。

 翌日夜、由里子さんの母親とようやく出会えた。自衛隊のヘリコプターに救出されたのだという。憔悴しきった義母は「2人とも流された。どこにも姿がないの…」という。絶望的な気持ちになったが、わずかな望みを信じ捜索を続けた。

 しかし、直人くんとみられる遺体が安置所にあると聞き、15日夜、身元を確認した。「肌着も服もよだれかけも、妻が好んで着せる組み合わせだった」。安置所で死亡届を出すと居合わせた同僚職員が泣き崩れた。

  職場の後輩だった由里子さんと出会ったのは3年前。「誠実で信頼できる人」と一目で直感し、6月14日の由里子さんの誕生日にプロポーズした。昨年7月に は直人くんが生まれた。幸せだった。デジタルカメラには、3人で迎えた最初のクリスマスの写真が保存してある。今年2月に撮影した1枚は3人で写った最後 の写真。眺めていると、さまざまな思い出があふれてくる。

 それでも西城さんはメッセージを書いて、市役所玄関ガラスに貼り付けた。

 『最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。

 いつまでも二人にとって誇れる夫、父親であり続けられるよう精一杯生きます。

 被災されたみなさん。

 苦しいけど

  負けないで!

   名取市職員 S』

 地震発生からちょうど1週間の18日午後2時46分、西城さんの職場でも黙祷を告げるサイレンが鳴り響いた。(吉田智香)

 

被災者へ「負けないで」 妻子失った市職員がメッセージ

 「被災されたみなさん、苦しいけど負けないで 職員S」。東日本大震災で被災した宮城県名取市役所に張り出されたメッセージが、人々を励ましている。書 いたのは市職員の西城卓哉さん(30)。津波で7カ月の一人息子の直人ちゃんを亡くし、妻由里子さん(27)は今も行方がわからない。「2人にとって誇れる夫、父親であり続けたい」と自分を奮い立たせて仕事を続けている。

 3月11日午後2時46分。市役所庁舎の自分の机にいた卓哉さんは、揺れを感じるとすぐに由里子さんの携帯に電話をかけた。呼び出し音がして一瞬、通じ たと思ったが、1秒も経たずに「ツーツーツー」と切れた。激しい揺れの中で何度もかけ直した。携帯の画面には「発信できません」の表示。不安だったが「直人を守ってくれているはず」と自分に言い聞かせた。

 卓哉さんが所属する保険年金課は、災害時には被災者の受け入れ態勢作りをすることになっていた。すぐに、避難所の食料調達の仕事が回ってきた。作業中に傷がつかないよう、結婚指輪を外してスーツの胸ポケットにそっとしまった。

 仕事を終えて、名取市内の自宅マンションに帰ったのは12日午前2時ごろ。海岸から約3キロ離れていたが、あたりは水と泥でぐちゃぐちゃだった。ドアを 開けて「由里子」と呼んだが、2人はいなかった。「どこかで寒い思いをしているはず」と、毛布や食べ物、オムツなどをいっぱい積んで車を走らせた。一晩中、近くの避難所を回り、駐車場に由里子さんの銀色の車を捜した。

 早朝、自宅から約3.5キロの由里子さんの実家を目指した。直人ちゃんを連れてよく遊びに行っていた。途中から道路ががれきと泥で寸断されていた。車を降り、がれきをつたって歩いた。海岸から約1キロの2階建ての実家は、なくなっていた。

写真:西城卓哉さんのメッセージ。今は市役所内の安否確認の掲示板にある=宮城県の名取市役所拡大西城卓哉さんのメッセージ。今は市役所内の安否確認の掲示板にある=宮城県の名取市役所

写真:西城卓哉さん(左)と由里子さん、直人ちゃん。昨年10月20日、卓哉さんの誕生日に外食した店で撮影した=卓哉さん提供拡大西城卓哉さん(左)と由里子さん、直人ちゃん。昨年10月20日、卓哉さんの誕生日に外食した店で撮影した=卓哉さん提供

写真:宮城県名取市役所に張られた西城卓哉さんのメッセージ。安否確認を求める他の張り紙と一緒にある=3月17日、小玉重隆撮影拡大宮城県名取市役所に張られた西城卓哉さんのメッセージ。安否確認を求める他の張り紙と一緒にある=3月17日、小玉重隆撮影

 13日、避難所で由里子さんの母に会えた。由里子さんは、直人ちゃんを抱いたまま実家で津波にのまれたと聞いた。

 15日、卓哉さんの父と妹が、避難所で仕事をする卓哉さんを訪ねて来て「安置所に直人に似た遺体がある」と教えてくれた。仕事を終え、市役所近くの安置所へ向かった。大きな棺がいくつも並ぶ中、小さなピンク色の棺。ふたをあけた。直人ちゃんがいた。眠っているようだった。紫色の肌着は泥で茶色になってい た。寄り添って、頭とほっぺをなで続けた。

 16日も、市役所は身内や友人の安否を確認しようとする人であふれていた。由里子さんも行方不明のまま。卓哉さんは1日に何度も何度も、避難所と犠牲者の名簿を目で追った。

 同じように名簿を探しても相手を見つけられず、がっかりする人を何人も見た。「つらい思いをわかる人間が、ここにいます」と伝えたかった。「自分に何ができるだろう」と自問した。被災者にメッセージを書こうと思い立った。

 17日、いつもより早く職場に着いた。机の引き出しにしまってある、家族3人の写真を取り出した。

 由里子さんと出会ったのは3年前。いつも笑顔で話す、明るい職場の後輩だ。一目ぼれし、その年の6月14日、由里子さんの誕生日にプロポーズした。由里 子さんの実家で飼うラブラドルレトリバーを連れて海岸をよく散歩した。昨年7月に直人ちゃんが生まれた。カメラを向けると、いつもにこにこ笑っていた。何千枚も写真を撮った――。

 思い出を胸に、ペンを手にした。一文字ずつ、丁寧に書いたが、線がゆがんだ。「負けないで」と書き上げた。

 「あの文章を書かれた方ですか……。実はうちもなんです」。数日後、家族を亡くした人たちが卓哉さんに声をかけてきた。無事に過ごせているかどうか、お 互いのことを話した。卓哉さんは「何か困ったことがあれば、相談し合いましょう」と約束した。「苦しいのは自分だけじゃない。一人一人の支えになりたい」 と願う。

 「妻と息子が生まれ育ったこの町を、またみんなが笑って暮らせるようにしたい」。職場の机の引き出しには、いつものように3人の写真が入っている。(滝沢卓)

     ◇

〈西城卓哉さんのメッセージ全文〉

 最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。

 いつまでも二人にとって誇れる夫・父親であり続けられるよう精一杯生きます。

 被災されたみなさん、

 苦しいけど

 負けないで!

    名取市職員 S

 

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保守記事.391-2-2 希望の光

2011-04-15 11:49:34 | 記事保守

あきらめない、醤油店主の意地

復旧の先に見据えた希望

肩を落としていた老舗醤油店の店主は、被災地の“ご用聞き”を始めていた。8代目と9代目。二人三脚で避難所の要望を聞き、足りない物資を送り届ける。すべてを洗い流した大津波。だが、瓦礫の大地には新しい胎動が生まれつつある。

 「何だよ、これ。こんなのここになかったぞ」。10mを超える津波に襲われた岩手県陸前高田市。八木澤商店を経営する河野和義氏(66歳)は鉄骨がむき 出しになった構造物を見て唸った。河野氏は味噌や醤油を製造する八木澤商店の8代目。同店は創業1807年、204年の歴史を誇る老舗企業である。

 

八木澤商店8代目河野和義氏
瓦礫に埋まった工場跡地に立つ8代目、河野和義氏(写真:宮嶋 康彦)

 長男が新築した自宅周辺の光景は目の裏に焼きついている。だが、息子が建てた住居は跡形もなく、あるはずのない建物が目の前に転がっている。「倉庫かなあ。どっから流されてきたんだろうね。もうわけが分かんねえや」。

 陸前高田は三陸沿岸の中でもひときわ大きな被害を受けた。死者と行方不明者は2300人(3月31日時点)。町の大半が瓦礫と泥に覆われた。

 名勝の誉れ高い高田松原は松1本を残して全滅した。辺りには異臭が漂っている。巨木の枝に引っかかった自動車のシート、2階部分に全く別の家が重なった奇怪な建物ーー。容易に想像できない光景が広がっている。

 204年の歴史を誇る八木澤商店も、3階建ての工場を残してきれいさっぱりなくなった。瓦礫の中に、ほのかに漂うもろみの香り。加工場があったことを想起させるのはそれだけだ。

 

津波に流された八木澤商店のスギ樽
津波に流された八木澤商店のスギ樽。微生物を採取する予定だ(写真:宮嶋 康彦)

 

またご用聞きから始めよう

 東京出張で難を逃れた河野氏は一度はすべてをあきらめた。だが、1人の従業員が行方不明になったが、そのほかの従業員や家族は無事だった。避難訓練を繰り返し実施していたためだ。

 八木澤商店では行政指定の避難所ではなく、さらに高台に逃げる訓練を重ねていた。その日も長男の河野通洋氏(37歳)の指示の下、裏山を駆け上がった。どす黒い塊が蔵や工場を押し流したのはその直後だった。

 そして、生き残った人々は新たな活動を始めた。救援物資のご用聞き。避難所を回り、要望を聞き、足りない物を送り届けるという活動である。

 「不思議なもんで、避難所に物資を届けると、『どこどこには何々が足りない』という情報が入る。それで、必要な物資をその避難所に持っていく。その繰り返しですね」。物資の配送を取り仕切る9代目の通洋氏は言う。

 避難所の中には神社や個人宅など小規模な避難所が少なくない。避難所登録を出していない拠点もあり、震災当初は物資が届きにくい状況になっていた。地元密着の八木澤商店にとって、得意先の顔や名前は周知のこと。それで、ご用聞きを始めたというわけだ。

 

 陸前高田では今、「ヤマセン」という八木澤商店のロゴを掲げたトラックが被災地を走り回っている。すべての避難所をくまなくカバーできているわけではないが、ご用聞きが被災者に希望を与えているのは間違いない。

 行政は津波で大打撃を受けた。300人いた市役所職員のうち、70人が死亡か行方不明になっている。残された職員は家族の遺体確認もせずに不眠不休で対応に当たっており、当初は物資の配送にまで手が回る状態にはない。

 岩手県中小企業家同友会の地元支部に所属している9代目。市役所職員とは幾度となく陸前高田の未来を語り合った。その仲間を次々と失う現実を前に、物資の配送を心に決めた。

 幸いなことに、2台のトラックが無事だった。それに、同友会の地元支部長が経営する高田自動車学校にはガソリンを積んだ教習車がいくつもあった。そのガソリンをトラックに詰めて、支援物資を配送しようーー。そう決めたのは震災から5日後のことだ。

 

混乱の中、9代目社長誕生

 

9代目河野通洋氏店
支援物資の配送を取り仕切る9代目、河野通洋氏(写真:宮嶋 康彦)

 肝心の物資は8代目が手配した。

 陸前高田に戻った河野社長は携帯がつながる隣町の親戚宅に滞在、日本中の知人友人に電話をかけた。もちろん、全国に散らばる同友会の仲間も様々な物資を送り届けている。

 このご用聞きは過渡期の業務であり、避難所生活が安定すれば、役割を終える。“その後”に備えて、八木澤商店は本業の再建にも着手し始めた。

 当面は自社での醤油造りは不可能なため、被災を免れた親しい醤油屋のOEM(相手先ブランドによる生産)を受けて、八木澤ブランドで醤油や味噌を売る段 取りをつけた。再建に向けて銀行の支援も取りつけている。内定を出していた新入社員2人も予定通り採用。1人の従業員も解雇する気はない。

 街中に転がっているスギ樽から酵母菌や乳酸菌などの微生物を採取すべく、大学とも連携し始めた。かつての味を取り戻すためには長い年月がかかるだろうが、微生物があれば、八木澤の味を取り戻せる。それまでは、何としてでものれんと雇用を守るという。

 そして、その先には陸前高田の再興を見据えている。

 「俺がこの町のシャッターを全部開けてやるよ」。そう豪語していた同友会の仲間は津波に流された。夢を語り合った仲間の多くを失った。「死にすぎました」。9代目が視線を落とすように大勢の仲間が命を落とした。

 

避難所で暖を取る子供たち
避難所の小学校で暖を取る子供たち(写真:宮嶋 康彦)

 酸鼻を極めた陸前高田に残ろうと思う住民がどれだけいるのか、定かではない。震災前の状態を取り戻すことさえ難しいのかもしれない。それでも、9代目は周囲に呼びかけている。「俺たちの手で陸前高田を取り戻そう」と。

 「あいつは大したモンだよ。この混乱が収まったらせがれに社長を任せるよ」。そう語っていた和義氏の言葉通り、4月1日付で通洋氏が社長に昇格した。未曾有の危機が9代目の器を磨いたということだろう。

 この社長交代が象徴的だが、春に草木が芽吹くように、瓦礫に覆われた大地に小さな胎動がいくつも生まれている。人の営みは永遠に続く。生きている限り、街も店も蘇る。

日経ビジネス 2011年4月11日号16ページより

保守記事.391-2 希望の光

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保守記事.272-105-5 金があれば何でもできる!!

2011-04-14 17:46:42 | 記事保守

伊首相、また「お手盛り法」 裁判期間短縮など下院可決

 イタリア下院は13日夜、裁判期間と時効を短縮させることを柱とする「司法改革法案」を賛成多数で可決した。贈収賄や児童買春事件の裁判を抱えるベルルスコーニ首相にとって、有利に働く与党主導の「お手盛り法」の一つ。

 与党が圧倒的多数の上院も近く可決が濃厚。ただ、ナポリターノ大統領が署名を拒否すれば施行されない。憲法裁判所が違憲判決を出す可能性もある。

 下院で可決した法案は、三審制のイタリアで、それぞれの結審までの期限を設け、それを超すと裁判自体が消滅する仕組みを導入。法廷戦術を駆使して裁判を 引き延ばせば、実質的に罪に問われないことになる。前科のない被告の刑事事件の時効も短縮。経済犯罪も、下級審で結審せずに3年以上経過した場合裁判が消 滅するとした。

 テロやマフィアがからむ社会的重罪を除き、原則すべての裁判を対象としている。このため施行以前に始まっている裁判にも適用されて、刑事裁判でもある首 相の収賄事件などは対象になるとみられている。アルファーノ司法相は「係争中の0.2%に影響するものに過ぎない」と強調するが、一方で、司法最高評議会 は国内の裁判の最大4割が消滅すると予測しており、大赦法の色彩が強いとの見方もある。

 首相はこれまで、自身を訴追の対象外とする「免責法」や、公務を理由に出廷を免除される「特権法」を作り、裁判を引き延ばして時効による無罪を勝ち取ってきた。しかし、いずれの法律も違憲判決を受け、最近の裁判には出廷せざるを得なくなっていた。(前川浩之)

 

保守記事.272-105 黙れ、ヘタリア!
保守記事.272-105-2 「まるで温泉街のようです」
保守記事.272-105-3 だからヘタリア野郎なんだよ!
保守記事.272-105-4 もうだまれ、ヘタリア野郎!

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保守記事.391-9 FUKUSHIMA差別

2011-04-14 17:44:05 | 記事保守

東日本大震災:「放射能怖い」福島からの避難児童に偏見

 原発事故で被ばくを恐れ福島県から避難してきた子供が「放射能怖い」と偏見を持たれるケースがあるとして、千葉県船橋市教委が全市立小中学校長ら に配慮するよう異例の指導を行っていたことが分かった。福島県南相馬市から船橋市へ避難した小学生の兄弟の事例では、公園で遊んでいると地元の子供から露 骨に避けられたという。兄弟は深く傷つき、両親らは別の場所へ再び避難した。大震災から1カ月たつが、福島第1原発の深刻な事態が収まる見通しは立ってい ない。知識の欠如に基づく差別や偏見が広がることを専門家は懸念している。【味澤由妃】

 

 川崎市の阿部孝夫市長が東日本大震災で被災した福島県を訪問し、がれきなどの災害廃棄物処理の協力を申し出たことに対し、2000件を超える苦情が市に寄せられていることが13日、明らかになった。

 阿部市長は7日、福島県庁で佐藤雄平知事と会談。被災地支援の一環として「津波で残ったがれきなど粗大ごみを川崎まで運び、処理したい」と申し出た。こ のことが新聞などで報じられた8日以降、川崎市のごみ処理を担当する処理計画課などに「放射能に汚染されたものを持ってくるな」「子供が心配」といった苦 情の電話やメールが殺到。中には阿部市長が福島市出身であることを挙げ、「売名行為だ。福島に銅像を建てたいだけだろう」というものもあったという。

 川崎市は「放射能を帯びた廃棄物は移動が禁止されているため、市で処理することはない」と説明。市のホームページでも安全性や理解を呼びかけている。

 

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保守記事.391-8 有事の政治

2011-04-14 17:26:49 | 記事保守

「レベル7は過大評価だ」ロシア専門家

日本政府が12日、福島第1原発事故の深刻度を国際評価尺度で旧ソ連のチェルノブイリ原発事故並みの「レベル7」に引き上げたことに対し、ロシアの専門家らからは「過大評価だ」などと疑問の声が上がった。タス通信が伝えた。

 国営原子力企業ロスアトムのノビコフ報道官は「当初の評価(レベル4)は低すぎたが、今度は振り子が逆に振れ、高すぎる」と指摘。事故発生時に深 刻な健康被害が出ていないことなどを理由に、レベル5より高くはないとした上で、レベル評価を含む政府の対応をこれ以上非難されないための政治的判断との 考えを示した。

 ロシア科学アカデミー原子力エネルギー安全発展問題研究所のアルチュニャン副所長は、福島の事故で住民が浴びている放射線量は、日常生活で自然環境から受ける量の10分の1程度であり「健康への影響から判断すればレベル4にも届かない」と述べた。(共同)

 [2011年4月12日22時59分]

 

 菅直人首相は13日、松本健一内閣官房参与と首相官邸で会い、福島第1原発から半径30キロ圏内などの地域について「そこには当面住めないだろう。10 年住めないのか、20年住めないのか、ということになってくる」との認識を示した。松本氏が会談後に明らかにしたものだが、首相は同日夜、「私が言ったわ けではない」と記者団に語った。
 松本氏によると、同氏は首相に対し、避難生活を強いられている周辺住民の移住先について、福島県の内陸部に5万~10万人規模の環境に配慮したエコタウ ンをつくることを提案。首相は賛意を示し、「中心部はドイツの田園都市などをモデルにしながら、再建を考えていかなければならない」と語った。
 ただ、松本氏はその後、「20年住めない」との発言について、「私の発言だ。首相は私と同じように臆測(認識)しているかもしれないが、首相は言っていないということだ」と記者団に釈明した。 

 

 

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